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隠退牧師 holala によるブログ

原発再稼働反対

 30年前の今日、日航機が御巣鷹山に墜落しました。520名の命が犠牲となりました。この日、夏休みで私は家族と共に妻の実家に帰省していました。長野県の実家は御巣鷹山から遠くない場所にあり、テレビで事故の報道を耳にしたとき、外に出て夜空を思わず見ました。その時は、まだどこに飛行機が落ちたのかは分からず、近くかも知れないと思ったのです。


 沢山の人命が犠牲になりましたが、交通手段としての飛行機の利用はなくなりませんでした。いったん事故が起きれば大きな犠牲を出す飛行機ですが、社会は、飛行機事故という危険があることを受け入れ、飛行機を利用しています。事故というリスク(危険)がありますが、そのリスクを受け入れています。自動車だって事故が起きれば命が犠牲になることが発生しますが、社会は、自動車事故というリスクを受け入れています。


 原発事故はどうでしょうか。原発事故が起きたら、はかりしれない影響を人々と社会に及ぼします。多数の人の生活が一挙に壊されます。事故が起きる前までの家族との平和で幸福な生活が奪われます。故郷が奪われ、多くの人は別な場所に生活拠点を移します。家が失われ、故郷を追われ、不安な日々が到来します。多数の人の生活を破壊する権利など誰にもありません。


 ところが、九州電力川内原発の再稼働が始まりました。福島の事故がなかったかのように<安全だから>と再稼働が始まりました。原子力規制委員会の田中委員長は、審査基準に合格したからといって安全を保証したわけではないとはっきり述べています。原発にはリスクがあります。そして社会は、このリスクを受け入れてません。だから再稼働に対して国民の過半数が反対しています。


 原発の再稼働を推進する政府、電力会社、地方自治体、経済界は、社会がリスクを受け入れることができるように最大限の努力をすべきです。これだけのことを考え、実行する用意があるから、再稼働を認めて欲しいと国民に問うべきです。しかし、その努力は見られません。国民がそのリスクを受け入れないのにリスクを押しつけることは許されることなのでしょうか。それは国民の命の軽視に他なりません。


 原発の再稼働という事態に直面して、私たちが見るのは、無責任です。万一事故が起きても、誰も責任を取らないという無責任です。政府も電力会社もは原子力規制委員会が安全だと判断したと言い、規制委員会は、安全だと保障したことはないと言います。万が一事故が起きた場合、その時には、今再稼働を推進する人々たとえば安倍首相、電力会社の経営者、再稼働を容認した地方自治体の首長は他の人に変わっているでしょう。すると今、再稼働を推進した人たちは、責任を問われないですみます。責任を負わない人が重大な決断を下すなんて、理不尽です。


 破壊的な事故を起こすリスクがあるものを推進して事故が起きたとき、誰も責任を取らないとするなら、責任を取れないのですから、再稼働をすべきではありません。数え切れない人たちの生活を破壊してもよい大義などありません。地方自治体の首長は、いったん事故が起きたら、地域は壊滅的な被害を受けることを知るべきです。想定外のことは起きるのです。福島で起きたのです。

 企業コンプライアンスという言葉をよく聴きます。コンプライアンスとは、法令遵守という意味です。企業は法令を遵守してこそ、その存在と活動が許されます。企業には社会的責任があります。電力会社の社会的責任はどうなのでしょうか。原発を推進する人たちは、事故は起きないと高をくくっているように思います。原発はいったん事故が起きたら、想像を超える被害を生みます。そのようなリスクのあることを行うことは企業コンプライアンスに反することだと考えます。


 私たち国民にも責任がないとは言えません。選挙で政治家を選んでいるからです。私たちが選んだ政治家が、再稼働を推進しているのです。今という時代は、政治に無関心になることが許されないときです。後の世代に人たちが安心して生きていけるように、私たちは見張りの役を神様から与えられています。


↑6月に買ってきたオクラの苗(右側)