クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

 先日娘が、若い頃僕がどんな仕事をしていたのかを聞いてきた。夫の母方の祖父の葬儀に参列した直後のことだった。僕の記憶容量は小さいので、自分の過去を自伝を書くことができるほどには覚えていない。そこで思い出したのが西田幾多郎の言葉。彼はこう語っている。

回顧すれば、私の生涯は極めて簡単なものであった。その前半は黒板を前にして坐した、その後半は黒板を後にして立った。黒板に向って一回転をなしたといえば、それで私の伝記は尽きるのである。

では僕の人生はどうか。
死の恐れを幼い頃に抱き、青年の時、死の恐れと空しさからの救いを求めて信仰者となり、死の恐れからの解放を説く福音を宣べ伝える牧師とされ、死を越える希望を追求した。短く言えば、このように言えるのではないかと思う。


 信仰者の希望は何か。信徒の人がよく言う希望は、<死んでも天国に迎えられる、神の国に迎えられる>希望である。確かにそこに希望がある。しかし死んだら浄土に行くと信じる仏教徒とどんな違いがあるのかと思ってしまう。門徒の墓には<倶会一処>の文字が刻まれている。浄土でまた会いましょう、との希望を表明する言葉で、キリスト者でも天国(神の国)での親しい人との再会を希望するし、葬儀の式文にもこのことが書かれている。仏教徒とのどんな違いがあるのかと考えてしまう。これは牧師が聖書に基づく希望をきちんと教えていないことが原因していると思う。


 キリストを信じる者は、復活、つまり体のよみがえりを信じる。聖書にはキリスト者の希望を語る言葉がいくつかあり、僕はそれを自分のものにしたいとの願っている。これは老いた者が取り組む課題でもある。

あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう(コロサイ3:3〜4)。

キリストと共に栄光に包まれる! 僕は、こういう希望を持ちたい。

そして、どんなことにも恥をかかず、これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています。わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、わたしには分かりません。この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい(フィリピ1:20〜23)。

このパウロの心に深く共感できたらと願っている。


↑すごい形のブナの木です。吉次山山頂。