クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ


↑医王山スキー

↑金沢の春


最近、朝、詩篇の90篇を読み、思いめぐらしています。手強い詩篇ですが、魅力があります。宗教改革者のルターが『生と死の講話』(金子晴勇訳、知泉書簡)を著しました。これはこの詩篇90篇の説教です。読みたいのですが、その前に自分でこの詩篇を味わっています。10節にこう書かれています。

人生の年月は七十年程のものです。
健やかな人が八十年を数えても
得るところは労苦と災いにすぎません。
瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります。


人生の空しさ、はかなさを述べていて、日本人は共感を覚えるのではないかと思います。平家物語も語ります。

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず。ただ春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。

鴨長明の書いた方丈記の出だしも世の無常、はかなさ、空しさを語ります。

行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。

そして旧約聖書のコヘレト、伝道の書も語ります。

伝道者は言う、空の空、空の空、いっさいは空である。日の下で人が労するすべての労苦は、その身になんの益があるか。


ところが使徒パウロは語ります。

わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。


自分は、このパウロの告白を自分の告白とすることができるのかと立ち止まります。これまでの牧師としての生活の中で、自分は何を成し遂げたのか、と振り返るとき、誇りをもって人に語ることができるようなことは何ひとつありません。洗礼を授けた人も、多くはありません。この日本で伝道することに空しさを覚えることはたびたびでした。日曜の午後、繁華街に行くと、人々は福音なんかなくても生きていけるわ、と語りかけているように感じたこともよくありました。


しかし、信仰者として、また牧師として神の導きの中を生きてきたし、神の導きに生かされてきたと思っています。家族と共に、教会員と共に歩んできました。生きてきました。その信仰の歩みを喜びとしています。何があったのか、特別なことはないかもしれませんが、信仰によって生きてきました。社会とも私なりにかかわって生きてきました。そんなことを思いめぐらしていたら、一つの言葉が浮かんできました。私の人生を言い表す言葉として浮かんできました。

僕は何かを残すために生きてきたのではなく、いつも希望を追い求めて生きてきた。そしてこれからも。