今日、教会員の家族の方から昼前に電話がありました。
「母が亡くなりました。家族だけで葬儀は済ませました。母の意志としての献金を届けに行きたいのですが、都合はいかがでしょうか」
九十歳過ぎの女性の教会員でした。長く施設で過ごしておられました。家族の中で信仰を持っているのは彼女だけでしたので、亡くなったとき葬儀はどうなるのだろうかと気になっていました。午後、ご家族の方が五名でお見えになりました。
「母が世話になりました」
とのご挨拶を受け、献金を預かりました。その後、
「ミサみたいなものを受けることができますか」
と言われたので、
「分かりました。それでは礼拝堂に行って、最前列に座っていただけますか。すぐに参ります」
と返事をして、急いで牧師館に戻り、着替え、牧師室に行って、この一月に亡くなったTさんの葬儀の説教を印刷して、礼拝堂に行きました。そして聖書を読み、祈り、短く説教をしました。その後、納骨の相談をして、お帰りになられました。お母さまの意志を大事にされたご遺族の姿に心が温かくなりました。
このような体験は初めてでしたが、み言葉をご家族の方に語ることができて、感動を覚えました。神さまのお計らいと感謝しました。
<説教>の紹介
人は生きているときに死を考え、死の床にあっては、天国のことを思えと教えた人がいます。確かにその通りだと思います。自分の死を考えるとは、いかに生きるかを考えることにつながります。人が生きる時間は限られています。年を取れば取るほど、時間が限られていることを知ります。時間の貴さを覚えます。しかし年を取ると、することもなく、時間をもてあますようになります。心身共に衰えてきます。外出することも少なくなります。そのような時は、天国を思うのです。
狭い母の胎から私たちはこの世に生まれます。この世は広い世界です。そして私たちは死という狭い門を通って、さらに広い、大きな、神の国に迎えられます。死とは神の国へ入るための扉のようなものです。先ほどお読みした聖書には、神の国の光景が描かれています。
「見よ、神の幕屋が人の間にあって、
神が人と共に住み、人は神の民となる」。
幕屋というのはテントの意味です。現代では、立派な礼拝堂あるいは神殿で神さまを礼拝しますが、昔は、大きなテントをつくり、中に祭壇をおいて、神さまを礼拝しました。
神の国では、<神が人と共に住み、人は神の民となる>とあります。神さまが人と共に住むというのです。私たち信仰者は、この世にあって、神さまが共にいてくださると信じます。共にいてくださると信じ、神さまに信頼し、この世の荒波を越えていきます。神さまが守り導いてくださると信じ、時に忍耐をし、望みをもって、現実に対処します。
ふと、神は本当におられるのか、本当に導いてくれるのか、魔が指すように、神を疑うこともあります。神が共にいてくださることが手に取るように分かるわけではないからです。しかし神の国では、神が共におられることがはっきりと分かるのです。それ故に、心は深い喜びに満たされるのです。人は、神さまが共にいてくださるという祝福に包まれます。それは言葉では言い表せないほどのものです。
さらに
「神は自ら人と共にいて、その神となり、
彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。
もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」。
これは慰めに満ちた言葉です。人生経験は人それぞれです。
聖書は、私たちがこの世で味わう辛い経験は、もはやない、という形で、天国のすばらしさを語ります。自分が死ぬことを知り、死の恐怖で、震えおののく経験もった方がおられるでしょう。あのような恐怖はもはやなく、限りない平安が私たちを包むのです。
あなたはどんな涙を流されたでしょうか。あなたが流された涙を神さまがぬぐってくださるというのです。わたしはあなたの悲しみ、辛さ、悔しさを知っているよ、と神さまは、み手をもって涙をぬぐってくださいます。
あなたが味わった悲しみ、労苦、それらはもはやない、というのです。この世で経験した悲しみ、労苦に対して、共にいてくださる神様は、有り余る慰めといやしを与えてくださる、それが神の国です。
神さまの愛に包まれるとき、何が起きるのでしょうか。私たちは、自分の人生を感謝することができます。そして神の国での新たな歩みを喜ぶことが出来ます。神の国での生活がどのようなものであるのかは、分かりませんが、幸いなものであることは間違いありません。神の愛が満ちた神の国、そこは、私たちの永遠の住まいです。<N>さんも、この神の国へ移されました。祈ります。