牧師が引退を考えるとき(4)
牧師の務めからの引退は、人生からの引退のように思えました。引退を考えるとき、死を意識せざるを得ませんでした。私が信仰を求めたきっかけの一つは、いかに死の恐れを克服するのかにありました。信仰に入り神の国の希望を与えられていますが、神の国の現実感(リアリティー)よりも死の現実感の方が大きいので、つい目は死に向かいます。ある時、加藤常昭牧師の説教を読んでいて次の言葉に出会いました。
「人間はどんなに確信を持っていても、自分の死を思うときに闇を見つめる思いになるでしょう」(加藤常昭説教全集12、一六ページ)。
これを読み、「ああそうなんだ、その通りだ」と思いました。私は闇を見つめてしまったのだと思いました。その言葉に続いて、
「そこに光が照るのです。その光は〈いのちの光〉であります」
とあります。うれしくこの言葉を読みました。闇を見続ければ闇の中に吸い込まれそうになりますが、光に照らされ続けて歩めばよいと教えられました。
それゆえ、神さまに召された者として、いのちの光に照らされて歩む使命があると思います。毎週の説教に追われずに、このいのちの光に照らされて神の国に向かって歩む信仰者の姿を聖書から読み取り、生きていくという課題を与えられていることを知ります。
たとえば主の祈りでみ国を来たらせたまえと祈ります。老いれば老いるほど、み国が迫ってくるはずなのです。闇を見つめるのではなく、御国を仰ぐ、これが老いの生活です。そしてパウロの言葉を思います。テモテ二4章。
わたし自身は、既にいけにえとして献げられています。世を去る時が近づきました。わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます。
義の栄冠が待っているゴールに向かって走る、これが老いの生活と受けとめます。
↑教会の駐車場に植えたコスモス
↑ツマグロヒョウモン。
今何匹もの蝶が飛び交っています。それを見るのはうれしいものです。