クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

  NHK BS放送で『山女日記』というドラマが放映されています。湊かなえさんという作家の同名の本をドラマ化したものです。気に入って楽しみに見ています。登ってみたいと思っている山が登場します。妙高山唐松岳。今日のドラマの最後で、主人公の山ガイドの女性と彼女が慕っていると思われる男性との間の会話がありました。

「夢とかある?」
「俺にはある。このでっかいアルプスにも負けない夢」


 ここで思わず僕も自分の夢について考えてしまいました。牧師を隠退する年齢の自分が夢を持つなんて、変かもしれません。でもその時、ふっとある考えが頭の中に思い浮かんだのです。信仰者が聖霊の導きを受けて、信仰者として新しく生まれた自分を喜び、生きている姿。そのような信仰者に満ちた教会。そのような教会が立ち上がる夢。これが僕の夢なのか。こんな夢を持つなら、なぜ隠退するのか、現役を続ければいいのではないかとの声は、心の中からは聞こえてはきません。私は、私なりに全力を尽くしたという思いはあります。ですからやり残したという思いはありません。しかし隠退後の夢として持つかどうか、問われているような気がしました。隠退後もなおあなたは、神に用いられることを願うのか否か。いや隠退するとは、後に続く人に任せるということなのではないか。


 実は今日、明日の牧師会に備えて『キリスト教の本質』(熊野義孝著)の「和解」について論じている部分を読んでいました。和解とは、贖罪であり新しい人間の形成であると書かれています。これについて僕は深い共感を覚えました。コリント二の第五章でパウロは和解の務めを与えられていると書く中で、信仰者は新しく造られたものであると宣言しています。ここを読みながら考えさせられました。新しい人間の形成には、聖霊の働きは欠かせません。教会では、贖罪つまり罪の赦しは多く語られていますが、新しい人間の形成は語られることが少ないのではないかとの危惧を持っています。それ故の夢なのです。

北陸学院小学校へ礼拝説教に行く途中で、
北陸学院小学校の小学生を送迎するバスと出遭った。