クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

死の受容(1)

 先日NHKのEテレの "On my way " という番組を見ました。「人生の途中で」という番組名です。「死を前にして人は何を思うのだろう」が今回のテーマでした。そして自分の死と直面した人を紹介しています。野中秀訓さん。野中さんは47歳で、化粧品の原料を扱う会社を経営をしています。サラリーマンをしていましたが10年前、独立して会社を興しました。そして会社の経営が軌道に乗ってきたとき体調を崩し、大腸ガンと診断され、しかも余命一年の末期の状態と告げられました。

 「いきなり12ヶ月と言われた時には、そんなわけはないだろうと思いました。がその途端、涙が出ましたね。抗がん剤の処方箋をもらって部屋を後にして、ここで人生を終わってしまうという悔しさ」。


 それまで考えたこともなかった自分の死と向き合うようになった野中さん。頭に浮かんだのは家族のことでした。

「人生が終わりになると家族を何とかしなくちゃいけないと非常に重く感じました。これまでは仕事に没頭し、深夜帰宅、休日出勤は当たり前、しかし余命宣告を受けてからは積極的に家族といる時間をとるようにしました」。


 そして最後に

当たり前の日常が重要ですよね。日常をいかに幸せに過ごせるかというのは、家族との関係ですよね。それぞれを気遣って、思いやって楽しく入れるっていうのが一番ですよね。


 余命宣告を受けて野中さんが思ったことは、残された日々をいかに生きるかを考えたこと、そして家族との関係を大切にするように時間の使い方を変えたということでした。野中さんは余命宣告を受けるまで、自分が死ぬことはほとんど考えてきませんでした。しかし余命宣告を受けて、命に限りのあることを知って、残された日々をいかに生きるかを考えました。自分の死をどのように受け入れたのかは語られませんでした。受け入れざるを得なかったのだと思います。とにかく残された人生をいかに生きるかを考えたのです。

↑八ヶ岳
 中世の修道院では、「メメントモリ」と互いに挨拶をしたと聞きます。人間は死に向かう存在で、だれもが死にます。自分の死を覚えて生きることを修道士たちは心がけたのです。自分の命の終わりが近いことを知って死と向き合う人がいれば、常日頃から自分の死を覚えて生きる人もいます。私は後者です。


 昨日から今日にかけて、妻の母の葬儀のために妻の実家(長野県)に行ってきました。今年は正月から葬儀を2回行いました。死が非常に身近に感じられる日々を過ごしました。使徒パウロは「わたしの身に一つのとげが与えられました」(コリント二12:7)と語っています。神さまは「わたしの恵みはあなたに十分である」と言って、そのとげを抜くことをなさいませんでした。そして最近思うようになりました。わたしにも「一つのとげ」が与えられていることを。そのとげは、死を恐れること。私が神を求めたのは、このとげが契機でした。(つづく)

↑野辺山、南アルプス