クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

死の受容(2)

 人は自分の死をどうすれば受け入れることができるのでしょうか。死を越える希望があれば死を受け入れることができるのでしょうか。死を越える希望があれば、死を受け入れることができるように思えますが、死を受け入れることと死を越える希望を持つことは同一のことではないと考えます。死を越える希望がなくても、人は死を受け入れることができるからです。逆に言えば、死を越える希望をもったとしても死を受け入れたくない、ということもあります。人はどのようにして自分の死を受け入れるのでしょうか。

  • 人は死ぬものと割り切って受け入れる。
  • 人が死ぬのは自然なことと考えて受け入れる。
  • 人が死ぬのは仕方がないと受け入れる。
  • 死ぬのは自分だけではないのだから、いいじゃないかと受け入れる。
  • 年とり、それなりに十分生きた。親も知人も何人か亡くなった。死ぬのも、まあいいじゃん、と受け入れる。
  • 死を越える希望により、受け入れる。


 若い時、死の恐れとそれ故の生きることの空しさを感じた時、私の心に一つの願いが生じました。それは、死んでも命が惜しくない、そのようなことのために生きて行きたいとの願いです。それなら死に勝利できるのではないか、そんなことを思ったのです。その頃は、まだ信仰は得ていませんでした。この願いを神さまは聞いてくださり、私は信仰に導かれ、牧師としての働きに召されました。若き日の願いが聞き届けられました。「とげ」がなければ、牧師の働きに召されることはなかったと思います。


 私の心には、今も死ぬことに納得したいとの思いがあります。納得して死を受け入れ、そして死ぬのです。(つづく)


妻の実家の最寄りの駅(信濃川上駅)