クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

死の受容(3)

 芥川龍之介は『河童』という短編小説を書いています。上高地には河童橋という有名な橋があります。主人公が上高地から穂高に登ろうとして出かけます。途中で霧が濃くなり登山を中止することを考えますが、突然河童と遭遇します。その河童を追いかけるうちに穴に落ち、河童が住んでいる世界に行きます。そこで生活をするようになるのです。ある時、河童の出産に立ち会います。妊娠した河童の夫が、お腹にいる子供に「生まれてきたいか」と尋ねます。「生まれたくない」と子が答えると、その子は生まれないのです。「生まれたい」と答える子が生まれてくるのです。河童は自分の誕生を選択できるのです。

↑上高地,河童橋

 でも人間は自分の誕生を選ぶことはできません。人は気づいたら生まれているのです。人によりますが、ある人たちは自分が死ぬべき存在であると知り、死の恐怖を抱きます。自ら望んで生まれたわけではないのに死の恐れを押しつけられることに不条理を感じる人たちがいるのです。私はその一人です。死にたくないのに気づいたら死ななければならないことを知らされるのです。河童なら、<生まれない>ことを選択できるのですが、人間は選択できません。それどころか死の恐怖を味わう世界に放り込まれるのです。不条理です。


 信仰を得て、死を越える希望を与えられました。しかし<仕方なく>死んでいくとの思いは消えませんでした。死の恐怖におののいた心は傷ついたのです。その傷がいやされない限り、死は仕方のない出来事なのです。この傷のいやしが必要なのです。自ら望んで生まれたわけでもないのに死ぬことを受け入れることができる論理が必要なのです。


 今年になって、ある教会員の言葉が耳に留まりました。そして聖書の言葉を思い起こしました。

神は天にいまし、あなたは地上にいる(コヘレト5:1)。


 人間と神との絶対的な相違、そのことを思わされました。そして神に抗議したヨブを思い起こしました。ヨブは最後に

わたしは軽々しくものを申しました。どうしてあなたに反論などできましょう。わたしはこの口に手を置きます。ひと言語りましたが、もう主張いたしません。ふた言申しましたが、もう繰り返しません(ヨブ記40:2)。


 ヨブは神と人間の絶対的な相違に気づき、抗議を引っ込めたのです。そして思います。私は人間として、被造物として神に造られた存在なのです。このことを徹底して、あるいは本気に信じるか、問われる思いがしました。そしてすぐ、信じました。被造物として造られた人間は有限の命の存在なのです。徹底して信じるなら、自分の命に限りがあることをも本気で信じるのです。人間の存在は不条理だと思い続けてきました。ヨブのように神に抗議をすることはしませんでしたが、心の奥底には創造主の愛を100%信じることができないでいました。不条理という思いがあるからです。しかし、神と人間との絶対的な差異を思うように導かれた時、不条理と感じる思いが消えていきました。神は神であり、人は人であることをあらためて受け取りなおしました。そして自分が死ぬことを納得することができたように思います。


 一歩前進するようにパウロが語りかけてくれます。

わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです(フィリピ1:21)。