クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

列王記上9章を読んで

 朝、列王記上9章を読みました。神さまがソロモン王に語りかけます。そこには祝福の約束と警告が語られています。神の前に無垢な心で正しく神の前を歩み、神が命じたことを行う人への祝福の約束があります。対照的に神に背を向けて離れ去り、神の戒めと掟を守らない場合、神は、イスラエルの民と神殿を捨てるとの警告です。


 私たちが神の前を歩むのか、神に背を向けて離れるのか、神の命じたことを行うのか否か、それによって私たちの行く末が変わってきます。祝福か、呪い(自ら招いた)か。私たちは自らの選択の結果を身に招くとあります。


 祝福について神は、「わたしは絶えずこれ(神殿)に目を向け、心を寄せる」。警告については、「神殿もわたしの前から捨てる」。それではイエス・キリストの教会はどうなのでしょうか。具体的に自分が牧会する教会は神の前を歩んでいるのでしょうか、背を向けて離れているのでしょうか。私が属する教会は神の前を歩んでいるのでしょうか、背を向けて離れているのでしょうか。自らを吟味するように迫られます。引退した者としては牧会の責任を直接は負っていません。でも神さまの前に連帯責任を負っていると感じています。


 以前、K牧師が牧師がお勤めとして説教をしていないか、と警告を発しておられました。礼拝をささげているから神の前に喜ばれる者として歩んでいると楽天的な判断はできないと思います。なぜなら、神さまは次のように語られる方でもあるからです。

お前たちのささげる多くのいけにえが/わたしにとって何になろうか、と主は言われる。雄羊や肥えた獣の脂肪の献げ物に/わたしは飽いた。雄牛、小羊、雄山羊の血をわたしは喜ばない。(イザヤ1:11)


 今自分にできることは、自分が牧会した教会のために、今礼拝に出席している教会のために祈ること、同労の牧師たちのために祈ることです。今日はこれらのことを祈ることにします。


昨日、朝散歩で春日大社に行きました。阿倍仲麻呂の歌の碑がありました。

「天の原ふりさけ見れば春日なる御蓋(みかさ)の山にいでし月かも」。

小学生の頃、百人一首を覚え、この歌も覚えました。どんな時に歌われていたのかは、知りませんでした。解説の言葉を読んで、切ない思いに導かれました。解説によると、「遣唐留学生に選ばれた阿部仲麻呂公(数え年17歳)と吉備真備公(20歳)たちは、ここ春日の神地で壮行神事を受けて出発、課程履修後は仲麻呂公のみ乞われて唐朝廷に入り、要職を歴任したのでした。(以下略)」。彼は、33歳の時に帰国願いを出しましたが認められず、53歳の時に認められました。出航前夜詠んだのがこの歌です。しかし舟は難破してベトナムに漂着。かろうじて唐の都長安に戻りましたが、帰国の夢むなしく70歳で亡くなったとのこと。彼の切ない思いが心に沁みてきました。