クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

若い日の日記

 引っ越した後も、荷物の整理をしています。古い茶箱に若い時の日記が放り込んであったので、取り出して読んでみました。それは1976年10月に開かれた東京西支区(現・西東京教区)の一泊の青年の集いに参加し、記録の文集に寄せた原稿です。私は29才でした。今70才。


西支区青年の集いに参加して


「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい」。この聖句を神からいただいた。キリストに合うバプテスマを受けた我々は心の中に向かうべきである。「自分自身をささげたいのか」。自分の置かれた立場と神によって与えられた各自の賜物に応じて我々は神のみ業へ参加している。しかし自らを徹底的に献げられない自分を発見することは困難ではないし、また神への奉仕に重荷を感じることも事実である。奉仕をすればする程、個人的な時間は失われ、自分のやりたいことのいくつかを犠牲にしなければならない。しかし、我々は問うべきである。「献げたいのか」と。イエスは語りかける。「献げなさい」と。そう僕は信じる。

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 我々の信ずる神は語りかける神である。また我々の祈りを聞かれる神である。そして我々を助ける神である。我々に必要なものは、救われたという確信と喜びである。この確信と喜びは我々の希望である。
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 我々は追いこまれる必要がある。自らを徹底的に献げきれるように追いこまれる必要がある。しかし、我々は自由である。
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 信仰は循環である。希望と祈りと献身の循環である。必要なことは、この循環の中に身を投ずることである。あとは神のなされることである。
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事ごとに感謝をもって祈りと願いをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。
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同じ信仰を持つ者の集いは大きな励ましである。感謝。
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 これを読んで、若い時と今の自分は変わっていないな、と思いました。これを書いた翌年の1977年4月に私は、日本聖書神学校の入学しました。日中は企業戦士として働きながら夜間の神学校に通いました。1977年5月に結婚をし、新婚旅行に行くので学校を休みますと言ったら、先生に怒られました。でも新婚旅行には行きました(^^;)。朝は6時に家を出、家に帰るのが夜の11時。そんな生活を4年続けました。それが新婚生活でした。


↑背後に見えるのは東大寺


↑若草山の麓で。この鹿は「おい、先生」とは話しかけてきませんでした。「鹿男あをによし」というテレビドラマが私は大好きで、このドラマの中で、鹿が主人公に語りかけるところからドラマが始まります。私は「献げなさい」との声を聞いて牧師になりました。長いドラマの中に今も生きています。