クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

祝福の源になる?

 金沢元町教会を引退して奈良に住むことを決めた時、僕は自分をアブラハムに重ねていました。アブラハムは神さまの示す地に向かって旅をしましたが、奈良は神さまの示された地と信じて転居しました。アブラハムは神さまから、祝福の源となるとの約束を得ていました。彼は自分がどのような意味で祝福の源となるか、分からなかったと思います。私たちはアブラハムを信仰の父と呼びます。アブラハムの信仰が祝福の源です。それではアブラハムの信仰とは何でしょうか。それは神の約束の言葉を信じ、それに伴う命令に従うことです。そして僕はアブラハムの信仰に倣って歩んできました。信仰について定義は色々できると思いますが、私が大切にしている表現は、

信仰とは神の約束を信じ、約束に伴う命令に従って生きることです。


 創世記12章1〜3節を紹介します。

12:1 時に主はアブラムに言われた、「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。
12:2 わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう。
12:3 あなたを祝福する者をわたしは祝福し、/あなたをのろう者をわたしはのろう。地のすべてのやからは、/あなたによって祝福される」。

  • 神様の約束は、あなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、/あなたをのろう者をわたしはのろう。地のすべてのやからは、/あなたによって祝福される。
  • 神さまの命令は、あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。

 アブラハムを祝福する者とは、アブラハムの信仰に倣う者のことです。アブラハムの信仰に倣う者が神さまの祝福を受けるとすれば、その祝福を受ける人もまた、他の人たちにとって祝福の源となるのではないか、と考えます。そうすると僕自身も祝福の源となると考えることができます。神さまが私を祝福の源にしてくださいます。とすれば、どのような意味において、私が祝福の源になるのか、です。


 祝福の源となるアブラハムが神の示された地に向かった旅をしたことに自分を重ね合わせた僕は、僕の何が祝福の源となるかをこの一ヶ月思いめぐらしてきました。金沢元町教会で私が力を注いだことの一つは、一人一人の信徒が聖書を読み、それを分かち合って励まし合うことでした。このように聖書を読み、分かち合うことは、諸教会にとって、信仰者にとって、祝福の源となるのではないか、と思いめぐらしていました。そんな私に起きたささやかな出来事があります。

 一昨日、電車に乗って大阪に行ってきました。銀行の通帳の記帳をするためでした。北國銀行の通帳から、色々引き落とされているので赤字になっていないか確認し、幾ばくかのお金を預けるためでした。金沢にいた時、移動はほとんど自動車でしたので、電車に乗るのは本当に久しぶりの経験でした。そして電車に揺られながら本を読むのも懐かしい経験でした。読んだのは『マルティン/ルター、ことばに生きた改革者』(徳善義和著、岩波新書)です。最近出版された本です。ルターは大学で学生に聖書講義をしていました。54ページにこういう記述があり、非常にうれしくなりました。

宗教改革とは根本的に「聖書を読む運動」といえるが、それはつまり、聖書をひとりで読むことから始まって、みんなと一緒に読み、読んだことをみんなと分かち合っていく運動である。その「みんな」に当たる最初の人たちが、ヴィッテンベルク大学の学生であった。


 ルターは大学の学生と聖書を分かち合ったというのです。先ほど書きましたが、金沢元町教会で僕が力を入れたことは、一人一人の信徒が自分で聖書を読み、そして共に分かち合い、励まし合い、互いに教え合うことであり、そのような聖書を読む交わりの育成でしたから、自分のしてきたことがここに書かれていると思い、うれしく感じました。

 そして電車の中で読んだあの言葉。ルターの改革が「聖書をひとりで読むことから始まって、みんなと一緒に読み、読んだことをみんなと分かち合っていく運動である」とするなら、私自身このことを実践してきたので、これが一つの模範となり、聖書を読む運動が広がっていくなら、私もまた祝福の源となるのではないか、あるいは、そのように聖書を読んでいる金沢元町教会は祝福の源となるのではないか、そんなことを思わされてうれしくなったのです。金沢元町教会の教会員と大澤正芳先生の働きが、祝福の源となることを願っています。また私も、置かれた場所と立場は違う者となりましたが、祝福の源となるための働きをして生きたいと考えています。



↑今朝の奈良公園