クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

説教 神の示された地を目指して


旧約聖書 創世記12章1〜4節
新約聖書 ヘブライ人への手紙 11章8〜12節
説教   神の示された地を目指して

→私は3月末をもって金沢元町教会を辞任し引退しました。
引退牧師の堀江明夫と申します。
実は引退を決意した時、心が揺れました。
というのは現役で牧師として働いている時、
自分の行く先に待っているのは牧師の働きからの引退でした。
牧師を引退する自分の行く先に待っているのは人生からの引退、
つまり、死です。
引退生活を始めるに際し、死を迎える心の備えができているのか、
と問われたような気がして、しばらく心が揺れました。


→私はイエス・キリストを信じていますので、
永遠の命の希望を持っています。
イエス・キリストの十字架の贖いの死によって
罪が赦されていることを信じていますので、
最後の審判を恐れてはいません。
それでも心が揺れたのは、不安がわき上がったからです。
死を越える希望に対する「確信」を問われたからです。
死を越える希望をどれほど確かなこととして信じているのか、
問われた気がしました。


→私たちは信仰者です。
ですから絶対的な確信、100%の確信を持つことはあり得ません。
死ぬ直前まで、神の国は本当にあるのか、
自分は本当に神の国に迎えられるのか、
私たちは疑うことができます。
私たちは不安から、疑ったりします。
しかし神さまは、私たちを信仰に生きるよう励ましてくださいます。
死を越える希望についても、
神さまは、
これを確かなこととして信じるように励ましてくださいます。
神さまはどのように励ましてくださるのでしょうか。
聖書を通し、神さまに聞きたいと思います。

→今日は創世記12章を読みました。
アブラハムは神からの呼びかけを聞きました。
神から約束と命令の言葉を聞きました。
アブラハムは自分が聞いた声が神であるとどうして分かったのでしょうか。
理由は分かりませんが、
アブラハムは、自分が聴いたのは神の呼びかけと信じ、
それに応答したのです。
それまでの慣れ親しんだ生活を捨てて新たな歩みを始めるのです。
相当な決断を必要としたと思います。


→アブラハムが聞いたのは、神の約束とそれに伴う命令です。
神さまの約束は2節にあります。
「わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、
あなたの名を高める/祝福の源となるように」。
皆さんがアブラハムだったら、
この約束をどう受けとめられるでしょうか。


→神さまの命令は1節にあります。
「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい」。
神の約束は、神の命令に従わなければ実現しません。
皆さんだったら、この約束の実現のために、
人生の方向転換を決断なさるでしょうか。


→考えてみれば分かりますが、アブラハムが信じた神の約束は、
彼が生きている間には実現しません。
でも彼は神の約束を信じ、神の命令に従ったのです。
自分が生きている間には実現しない約束、
このような約束を皆さんは信じますか。
このような約束の実現を信じて、
人生の方向転換をされるでしょうか。
アブラハムは神の約束を信じ、その約束を大切なものと受けとめ、
約束の実現を目指して一歩を踏み出しました。
神の命令に従いました。


→アブラハムが神の声に従って旅を始めたのは75才の時です。
アブラハムは既に老人です。
しかも彼には子どもはいません
やがて彼の心に神の約束に対する疑いが芽生えてきます。
いや疑いが彼の心に満ちてきます。
その時、神の声が幻の中で聞こえてきます。

「恐れるな、
アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう」(15:1)。
神の約束を確かなものとしなさいとの神さまのお言葉です。
これに対するアブラハムの言葉は、
「わが神、
主よ。わたしに何をくださるというのですか。わたしには子供がありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです」(15:2)。
これは神の約束に対する失望の言葉です。
すると神は言うのです。
「天を仰いで、星を数えることができるなら、
数えてみるがよい。あなたの子孫はこのようになる」(15:5)。
不思議なことにアブラハムは、今一度神の約束を信じました。


→時が流れます。
神の言葉を聞いてから十年度、アブラハムが85歳の時、
妻のサライがアブラハムに言います。
「主はわたしに子供を授けてくださいません。どうぞ、
わたしの女奴隷のところに入ってください。わたしは彼女によって、
子供を与えられるかもしれません」。
そして「アブラムはハガルのところに入り、
彼女は身ごもった」(16:4)。
アブラハムは、彼の子を得ることになります。
アブラハムはこれで、
神の約束の第一歩が実現したと思ったかもしれません。
曲がりなりにも彼の子が生まれたのです。


→それからほぼ15年後、彼が99歳になった時、神さまが現れ、
アブラハムに言います。
「わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、
全き者となりなさい」。
「あなたの妻サライは、名前をサライではなく、サラと呼びなさい。
わたしは彼女を祝福し、
彼女によってあなたに男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福し、
諸国民の母とする」(17:15)。
神はおっしゃるのです。サラが子を産み、
その子からアブラハムの子孫が増えると。
その時アブラハムは心の中で言いました。

「百歳の男に子供が生まれるだろうか。九十歳のサラに子供が産めるだろうか」。
アブラハムは神の約束を疑うどころか、
実現するはずがないと思ったのです。
神の約束を嘲笑ったのです。
しかし、何とサラは身ごもり、アブラハムの子を産みます。
アブラハムが100歳の時、彼は生まれた子をイサクと名づけます。

→イサクが何歳になったのか分かりませんが、
ある時、神がアブラハムに命じます。
「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、
モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、
彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい」(22:2)。
イサクを焼き尽くす献げ物にするとは、言い換えれば、
イサクを殺すということです。
イサクが死んだら、
アブラハムの子孫はどのようにして増えるのでしょうか。
アブラハムを大いなる国民にするという神の約束はどうなるのでしょうか。
この時、アブラハムは神の命じるままに行動しました。
イサクを焼き尽くす献げ物としてささげることにしたのです。
神の約束と神の命令は矛盾しています。
しかしアブラハムは信じたのです。
たといイサクが死んだとしても、
それでもなおアブラハムの子孫は大いなる国民となるという神の約束を信じたのです。
自分の頭で完全に納得した上での行動ではなく、
むしろ、神にゆだねることにしたのです。
この矛盾を解決するのは、アブラハムではなく、神さまです。
それ故、アブラハムは神さまにゆだねました。


→アブラハムは最初、神の約束を聞き、信じ、
新たな人生に踏み出しました。
なかなか子が生まれないので、神の約束を疑う時もありました。
彼が99歳の時、妻サラが子を産むと神が語った時、
彼は神の約束を嘲笑いました。
しかし、イサクをささげなさいと神が命じた時、
神さまにすべてをゆだね、
神の約束は実現すると<信じた行動>をしたのです。

→次はモーセとイスラエルの民です。
出エジプト記に書かれている出来事です。

イスラエルの民はエジプトで奴隷として辛く苦しい生活をしていました。
この苦しみからの救いを求めて、イスラエルの民は神に叫びました。
すると神はモーセを選び、語ります。
神は先ず、約束の言葉を語ります。
「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、
追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、
その痛みを知った。それゆえ、わたしは降って行き、
エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、
広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、
ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、
エブス人の住む所へ彼らを導き上る」(出エジプト3:7〜8)。
神さまは、奴隷状態にあるイスラエルの民を救いだし、
広々としたすばらしい土地へ導くと約束されたのです。
そして神はモーセに命じます。
「今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。
わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ」(3:10)。
モーセもまた神の約束と神の命令を聞いたのです。
アブラハムに与えられた約束とちがって
この場合、モーセは神の約束の実現を見ることができます。
モーセは、その神の約束の実現のために歩むのです。


→神さまは、エジプトにおいて大いなる御業を繰り返し行います。
このままではエジプトの国は滅ぼされるとの危機感を感じた王は、
イスラエルの民を解放します。
神は圧倒的な力ある業を行われたのです。
そしてイスラエルの民はエジプトを脱出し、
神が与えると約束された広々としたすばらしい土地に向かって旅をします。
それは荒野の旅で困難が待ち受けていました。食糧がなくなります。
飲み水がなくなります。
するとイスラエルの民はどうしたのでしょうか。
不平、不満を言い出します。
荒野で私たちを死なすためにエジプトから導き出したのか、と
モーセに対し不満を言います。


→この民の不満を耳にする時、私たちは思うのです。
なぜ神に信頼しないのだろうか。
神はすばらしい土地に導くと約束されたではないか。
ただ約束されただけではない。
大いなる御業を繰り返し行ってエジプトから解放されたのに、
なぜ神に信頼しないのだろうか。


→その後、荒野の旅において、困難が起きるつど、
実は神は御業を行ってイスラエルの民を助けています。
食べ物がなくなった時、神は天からマナを降らせました。
飲み水がない時、岩から水を出しました。
イスラエルの民は、神の助けを何回も体験します。

困難が起きた時は神に助けを求めればよいと学習することができたのです。
それなのになぜ信頼しなかったのだろうか、と私たちは思います。


→とうとう神が約束された広々とした素晴らしい土地を目の前にするところまで来ました。
モーセは偵察隊を送ります。(民数記13章)
戻ってきた偵察隊は報告します。
そこは素晴らしい土地で豊かな実りをもたらす地です。
しかし強そうな民が住んでいます。戦えば負けるかも知れない、と。
すると民はまたもや、不満を言います。
挙げ句の果てにエジプトに戻ろうとさえ言います。
ここに至って神は怒られます。
これまで何度も困難な時に助けてきたのに、
それなのに信頼しようとしない民に怒りました。

その結果、エジプトを出たとき大人だった人たちは誰も約束の地に入れませんでした。
大人たち、つまり彼らは神の大いなる業を見たのに、
神に信頼して助けを求めることをしなかったのです。
約束の地に入ったのは、彼らの子供たちでした。


→そこで思います。
人間は、不安に支配されやすいことを。
神の約束を信じて不安を静めることができず、
逆に不安に支配され、神の約束を信じられなくなるのです。
もし信じて裏切られたら、と考えると恐ろしくなって
信じようとしなくなるのです。
今までは助けられたけれど、
今度も助けてもらえるという保証はどこにあるのか。
そう言って、神を信頼することを拒むというか、
信頼しようとしない心、
頑なな心が人間にはあります。
その頑なな心が私たちにも、ないとは言えません。


→でも注意してください。
神さまは約束を果たすために、イスラエルの民が困難に陥るたびに
助けてくださったのです。
神さまに信頼するように励ましてくださっていたのです。
アブラハムには、
「わたしは全能の神である」と神さまはご自身がいかなる方かを伝え、
信じるように励まされました。

→今度は私たちの番です。
私たちにも神様の約束が与えられています。
今日は新約聖書のヘブライ人への手紙を読みました。
そこには不思議なことが書いてあります。
10節。
「アブラハムは、
神が設計者であり建設者である堅固な土台を持つ都を待望していたからです」。
16節。「ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、
すなわち天の故郷を熱望していたのです」。
彼らとは、アブラハムの子や孫たちのことです。
アブラハムは、子や孫たちと共に、天の故郷を熱望していたこと、
そして生きている間、約束されたものを手に入れなかった、とあります。


→創世記には、このようなことは書いてありません。
ヘブライ人への手紙の著者は、
アブラハムに神の約束を信じて旅をする信仰者の姿を見たのです。
私たちもまた神様から約束を与えられています。
天の故郷、
つまり神の国に迎えられるとの約束が与えられています。
この約束に伴う命令は、アブラハムやモーセの場合のように
はっきりしたものはありません。
信仰によって人生を歩めということだと思います。
私たちはアブラハムのように、
自分が生きている間には実現しない約束を信じて生きています。
そしてモーセに率いられて広々とした素晴らしい土地を目指したイスラエルの民のように
いつ何が起きるか分からない旅、人生を旅しています。


→天の故郷、神の国に迎えられるという神様の約束を
何があっても、
疑わずに100%信じて歩むことができるものでしょうか。
ヘブライ人への手紙の11章の最初に
「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、
見えない事実を確認することです」とあります。
信仰とは確信することだとあります。
しかし何かあれば、不安が心の中に湧いてきて、
私たちの心は不安に支配されてしまいます。
ある日突然、あなたはガンで余命一ヶ月ですなどと宣告されたら、
どうでしょうか。
あなたは、神の国の希望に立って動揺することなく、
その宣告を受け入れることができるのでしょうか。


→私は思います。
信じ切れない弱さを恥じる必要はないことを。
信じ切れないことこそ、私たちの現実であることを。


→ここで大切なことは、神さまはいかなる方であるか、
ということです。
自分ではなく、神さまに目を向けるのです。
神さまは私たちの信仰の歩みを励ましてくださる方です。
アブラハムには全能の神であるとご自身を知らせましたし、
イスラエルの民には、
彼らが困難に遭うたびに大いなる業を行い、
信じるように彼らを励まされました。
私たちも信仰をもって人生を歩み、
神さまの励ましを受け取りつつ歩むのです。

→宗教改革者のルターは信仰者にとって大切なものは聖書だと教えます。
聖書だけが大切であると教えます。
そしてルターは言います。
「祈って聖書を読みなさい」。聖霊なる神さまがあなたの心を照らし、
あなたに聖書を理解させてくださるように、
ひざまずいて祈りなさいと勧めます。
次に聖書の言葉を思いめぐらしなさいと教えます。
その聖書の言葉は何を意味しているのか、
その聖書の言葉が自分の生活とどのように関係しているのか、
あるいは、その聖書の言葉を通して、
神さまはあなたに何を語ろうとしているのか、思いめぐらすのです。
さらに、試練の中にある時は、
いっそう聖書に心を向けなさいと教えます。試練とは、
あなたの心を神さまに向かわせるためにあります。


→神さまは、あなたを愛しておられます。
神さまは、あなたの状況をすべてご存じです。
神さまは、
すべてのことがあなたにとって益となるようにあなたを導かれるお方です。
箴言3:6
「心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず
常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば/主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる」。
あなたが聖霊の導きを求めて祈って聖書を読み、思いめぐらすとき、
神さまはあなたに導きを与えようとしておられます。
聖書を思いめぐらすとき、私たちは自分の生活をも思いめぐらし、
神さまの導きを受け取るのです。
神さまに導かれるのは聖書に登場する人物や、
偉大な信仰者たちだけではありません。
私たちも、神さまから導きをいただき、
神さまに励まされて歩むことができます。


→引退を決意した時、心が揺れたことを最初にお話しました。
聖書を読み、思いめぐらす中で導かれたことがあります。
最後にそれをお話しします。
イエス様を信じる人は、
神の国に迎えられるとの約束を与えられていますが、
この約束は、私たちが生きている間は実現しません。
私たちが死んだら、
必ず実現するという保証はあるのかと言われたら、
その保証は、あると言えるし、ないとも言えます。
神さまが約束された、それが保証です。その意味では保証はあります。
神さまの約束は疑えばきりがありません。
その意味では保証はありません。
そこで私は、神さまの約束を信じる方を選びます。


→私は自分が、エジプトを脱出した民、不信仰に陥った民と変わることがないと思っています。
でも彼らと同じ歩みをするつもりはありません。
私にはできることがあります。
「信じます。信仰のない私をお助けください」(マルコ9:24)と祈ることができます。
さらに神さまの励ましをいただきつつ生きていきます。
聖霊なる神さまは、聖書を読み、
神さまの導きを受け取って歩む信仰者を
励ましてくださいます。
聖書を通して、神さまの導きを受けつつ、神の国を目指して生きていきます。

祈り

天の父なる神さま、
私たちをいつも信じる者として歩ませてください。
あなたの憐れみによって私たちを支え、信仰を励ましてください。
イエス・キリストの御名により祈ります。