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隠退牧師 holala によるブログ

説教 聖霊を受けて


新約聖書 使徒言行録2章1〜13
旧約聖書 エゼキエル書 37章1〜10節
説教 聖霊を受けて
2017/06/04
→この3月末に金沢元町教会を隠退した牧師の堀江明夫と申します。今日はペンテコステ礼拝です。
聖霊が祈っている弟子たちの上に降り、弟子たちが語り出し、
教会が誕生します。
ペンテコステの出来事は不思議な出来事ですが、
<私たちの出来事でもある>ことをお伝えしたいと思います。
→「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると」。
弟子たちは一つに集まり、祈っていました。
弟子たちは、神の約束の実現を待ち望んで祈っていたのです。
使徒言行録1章4節にこう書かれています。

「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、
父の約束されたものを待ちなさい」。

これは復活されたイエス様が、
弟子たちと一緒に食事をしていたときに、語られた言葉です。
「父の約束されたものを待ちなさい」。
父とは、父なる神さまのことです。
さらに1章8節では、イエス様はこう語っています。

「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。
そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、
また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」。

弟子たちは、
聖霊を受けるという神の約束の実現を待ち望んで祈っていたのです。
そしてイエス様の証人となることも祈りつつ考えていたことと思います。
イエス様は復活されてから40日間弟子たちと共に過ごされ、
天に上げられ、父なる神のもとに帰られました。
約10日間、弟子たちは祈り続けました。

→そして不思議なことが起きました。
2節から読みます。

「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、
彼らが座っていた家中に響いた。
そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、
一人一人の上にとどまった」。

炎のような舌の形をしたものが祈っていた人々の上にとどまったというのです。
日本では「火の玉」が現れるというようなことが言われますが、
舌の形をした火のようなものが、
祈っていた弟子たちの上にとどまりました。
「舌」ということは、「語る」ことを暗示しています。
すると弟子たちは、聖霊に満たされ、
霊が語らせるままにほかの国々の言葉で語り出した、というのです。
この弟子たちの多くはガリラヤ出身で、
他の国々の言葉など知らない者たちです。
自分が知らない外国語で語り出したというのですから、
これは不思議な出来事です。


→「霊が語らせるままに」語り出したとあります。
これは聖霊に操られているのではないか、
と思われるかもしれません。
自分の意志を奪われ、操られているとすれば、大変なことです。
そして聖霊に操られることを恐れるのです。
その結果、
聖霊に対する関心を持たないようにすることがあるかもしれません。


→私たちは、三位一体の神を信じています。
使徒信条でも、
私たちは「父なる神を信ず」「その独り子であるイエス・キリストを信ず」、
そして「聖霊を信ず」と告白しています。
聖霊は神であり、人格を持った神であると私たちは信じます。
人格を持つゆえに、
聖霊は私たちを操ることはしないと私は信じます。
三位一体の神さまは、愛の神だからです。


→また弟子たちは「聖霊に満たされて」語り出したとあります。
「聖霊に満たされる」とはどういうことなのか、
私には分かりません。
使徒言行録4章では、弟子たちは聖霊に満たされ、
大胆に神の言葉を語り出したとあります。
ですから「聖霊に満たされる」ことは喜ばしいことに見えます。
「聖霊に満たされる」ことに、私は憧れを感じます。
イエス様が「あなたがたの上に聖霊が降ると、
あなたがたは力を受ける」と語られたことを思うと、
聖霊によって力を受けている状態が、
聖霊に満たされることなのかもしれません。

→そこで思います。
聖霊には、私たちを<力強く導く>という働きがあります。
聖霊は、神さまでもあります。
誰に対して、聖霊なる神さまは、働きかけるのでしょうか。
イエス様はおっしゃいました。
「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。
そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、
また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」。
この言葉から判断すると、
イエス様の証人になることを志す人に聖霊は働かれます。
弟子たちは10日間、共に心を合わせて祈っていたのです。
弟子たちはイエス様の証人になることを願い、
聖霊が降ることを祈り求めていたと思います。
そこに聖霊が降り、弟子たちは口を開いて語り出しました。


→聖霊には、さらに信じる者に確信を与えるという働きがあります。
今日の聖書箇所のすぐあと、
14節以降でペトロはイエス様の証人として語ります。
神さまは、十字架につけられたイエス様を復活させたこと、
このイエス様こそ、救い主であることを堂々と語りました。
この時のペトロのは、
イエス様がまことの救い主であるとの確信に満ちています。
神さまがイエス様を死者の中から復活させたと確信しています。
イエス様が十字架につけられる前、イエス様が捕らえられたとき、
ペトロはイエス様を見捨てて逃げてしまったのです。
この時のペトロはもういません。
聖霊を受けたペトロは新しい人になりました。
ペトロはイエス様を宣べ伝えましたが、やがて捕らえられます。
そしてイエス様について二度と語るな、と脅されます。
ペトロは自分を脅す人たちに、イエス様に敵対した人々に対して、
「神に従わないであなたがたに従うことが、
神の前に正しいかどうか、考えてください。
わたしたちは、
見たことや聞いたことを話さないではいられないのです」(4:19〜20)と語っています。
イエス様を見捨てて逃げたペトロとは別人です。


→ペトロは確信を与えられ、大胆にイエス様を宣べ伝えたのです。
捕らえられることを恐れず、
イエス様のために命を投げ出す覚悟をもって、
イエス様を大胆に宣べ伝えたのです。
ペトロだけではありません。
他の弟子たちもまた同じです。


→ペトロが釈放されて弟子たちのところに帰ってきたとき、
弟子たちと共にいたイエスを信じる人たちは、
心をひとつにして神さまに祈りました。
「主よ、あなたは天と地と海と、そして、
そこにあるすべてのものを造られた方です。
・・・主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、
思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。
どうか、御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、
病気がいやされ、
しるしと不思議な業が行われるようにしてください」(4:29〜30)。
するとどうなったのでしょうか。
「祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、
聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした」。
私の大好きな場面です。

→ペンテコステは私たちの出来事です、
と言ったら驚かれるでしょうか。
ペンテコステの日に何が起きたかを話ししました。
このペンテコステは私たちの出来事であると皆さんにお伝えします。
私たちもまた、約束の聖霊を受けて、新しい人とされ、
確信を持って、イエス・キリストの証人とされます。
これもまた福音です。


→私たちもまた約束の実現として聖霊を受けます。
ペンテコステの日、ペトロはイエス様を宣べ伝えました。
そして多くの人に悔い改めて洗礼を受けるように語りました。
38節でペトロはこう語っています。

「悔い改めなさい。
めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、
罪を赦していただきなさい。
そうすれば、賜物として聖霊を受けます。
この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、
遠くにいるすべての人にも、つまり、
わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、
与えられているものなのです」。

洗礼を受ける人はだれでも、
賜物として聖霊を受けますとの約束が語られています。
「遠くにいるすべての人にも」とありますが、時と場所を越えて、
洗礼を受ける人はだれでも、約束として聖霊を受けるのです。
ですから、ここにいる洗礼を受けた皆さんは誰でも、
聖霊を受けているのです。


→さらにヨハネ福音書で、イエス様は語ります。

「わたしは父にお願いしよう。
父は別の弁護者を遣わして、
永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。
この方は、真理の霊である」。

真理の霊とは、聖霊のことです。
永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださるというのです。
ですから皆さん、
あなたがたの内に聖霊なる神さまがおられることを信じてください。
私たちは洗礼を受けたとき、
聖霊を受けるという約束は実現したのです。


→テトスの手紙に洗礼に関連したことが書かれています。

「神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、
御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。
この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、
新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。
神は、わたしたちの救い主イエス・キリストを通して、
この聖霊をわたしたちに豊かに注いでくださいました」(テトス3:5〜6)。


→「この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、
新たに造りかえる洗いを通して実現したのです」。
洗礼を受けたとき、
私たちは聖霊によって新しく生まれたというのです。
洗礼はキリストの恵みであり、
罪の赦しと新しく生まれることが約束されています。
そして神さまは聖霊を私たちに豊かに注いでくださいましたとあります。
神さまは、聖霊を私たちに豊かに注いでくださいましたとあります。
これは信ずべき事柄です。
実感できるかどうかは関係ありません。
神さまが注いだと言われるからには、聖霊は、
私たちに注がれているのです。


→そして聖霊によって、私たちは新しく生まれたとあります。
私たちが新しく生まれると、私たちはどうなるのでしょうか。
ペトロはイエス・キリストが救い主であると確信し、
イエス様を宣べ伝えました。
私たちも、イエス・キリストが救い主であるとの確信を持ちますが、
私たちは、聖書が神の言葉であるとの確信を持ちます。
私たちは聖書から、イエス様のことを知りますし、神について、
救いについて、私たちは聖書から教えられます。
日本基督教団信仰告白にはこう書かれています。

「聖書は聖霊によりて、神につき、救ひにつきて、
全き知識を我らに与ふる神の言(ことば)にして、
信仰と生活との誤りなき規範なり」。

礼拝で私たちは教団の信仰告白を告白しますが、
そこには「聖書は神の言葉である」と書かれています。
聖霊は、聖書は神の言葉であるとの告白を導きます。


→聖霊なる神さまは、私たちのうちにおいでになっていますが、
どんなふうにして、私たちを導き、
聖書は神の言葉だと確信させるのでしょうか。
聖霊の導きは、人それぞれだと思います。
私自身は、一日中祈った祈りが翌日かなえられたとき、
神は生きて働かれる方であると知らされました。
その時から、聖書は神の言葉であると確信しました。


→私の妻は日々聖書を読む中で、確信しました。
私も彼女も聖書を読むとき、心がけていることがあります。
聖書日課で示された箇所を読みますが、
神さまはどのようなお方であるのか、
神さまはどのような生き方を私たちに願っておられるのか、
この二つを聴き取る努力をします。
そして思いめぐらします。
聴き取ったことを思いめぐらし、
自分の置かれた状況を思いめぐらし、
聴き取ったことを自分の生活に適用するようにします。
こういう適用を繰り返していくとき、神さまの導きを経験し、
聖書は神の言葉であると悟り、また確信を与えられていきます。


→聖書が神の言葉であるとの確信を持ったら、
それは信仰者の歩みに変化をもたらすと信じます。
聖書は神の言葉であると確信しているあなたは、
そう確信することによって、あなたの生活の中で、何が、
どのように変わられたでしょうか。
確信を持ったら、私たちはどう変わるのでしょうか。
教団の信仰告白に、聖書は神の言にして、
「信仰と生活との誤りなき規範なり」とあります。
聖書が、私たちの生活の規範となります。
私自身は、聖書を土台にして物事を考えるようになりました。
常識、これまでの経験、知恵、人の意見、
などよりも聖書を優先させて考えます。
聖書に教えられたことをもとにして行動します。
生活上の事柄も、教会の事柄も、聖書はどう言っているのか、
が考えるときの出発点です。
口が裂けても、「聖書はそう言うけれども、
私は・・・」という言葉は言いません。
聖書は神の言葉であると確信するので生活の規範にもするのです。
この確信は、聖霊が与えてくださるものと信じています。
こうして聖書の言葉によって生きていくとき、
私たちはイエス様を証しする歩みをする者とされていきます。

→今日は旧約聖書のエゼキエル書を朗読していただきました。
谷間に枯れた骨が沢山ありました。
枯れた骨とは乾ききった骨ということです。
預言者エゼキエルは骨に向かって神の言葉を語ります。
神さまは言います。

「見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。
すると、お前たちは生き返る。
わたしは、お前たちの上に筋をおき、肉を付け、皮膚で覆い、
霊を吹き込む。
すると、お前たちは生き返る。
そして、お前たちはわたしが主であることを知るようになる」。
エゼキエルが骨に向かって、神の言葉を語ると、骨と骨が近づき、
その骨に筋と肉が生じ、皮膚がその上をおおいました。
人の形をしたものが沢山生じました。
さらに預言者は言います「霊よ、四方から吹き来たれ」。

すると霊は、人の形をしたものの中に入ります。
すると人の形をした者は生き返りました。
これは何を意味しているのでしょうか。
イスラエル民族は神の民として選ばれました。
ダビデ、ソロモンは、イスラエルの偉大な王となりました。
しかし続く王は、神に逆らい続け、
結果としてイスラエルの国は滅びました。
イスラエルの主だった人々は捕虜となって外国に連れて行かれました。
かくしてイスラエルの国は滅亡する運命を辿ったかに見えたのです。
しかし神さまは預言者エゼキエルを通して、
神の民イスラエルの復興を預言したのです。
霊を受けた新しい人が神の民となるという希望を語りました。
このエゼキエルが預言したことは、
ペンテコステの時に実現したと私は考えています。


→今や、イエス様を信じる人々は聖霊を受けました。
聖霊により新しく生まれ変わりました。
聖書は神の言葉であると確信し、
聖書の言葉を信仰と生活の基準にして生きる人が誕生したのです。
教会とは、このような人たちの集まりであり、
ペンテコステは教会が誕生した日と言うことができます。
聖霊に導かれて生きる信仰者、教会が誕生したのです。
ペンテコステの出来事は、私たちの出来事です。