7月9日の奈良県内の教会での礼拝説教です。
聖書 フィリピ2章12〜21
説教 本国が天にある私たち
2017/07/09
→私は小さい頃から、死を意識して生きてきました。
今70歳になりますと、いつ自分が死んでもおかしくないと感じます。
それ故に、死を越える希望をいかに確かなものとするかという課題を抱えています。
詩編16編を司会者の方に読んでいただきましたが、こう書かれていました。
「あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく/あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず命の道を教えてくださいます」(詩編16:10〜11)。
神さまは「命の道」を教えてくださるとの約束が書かれています。
この命の道には、死と向き合う道も含まれているのではないかと思います。
→今日の説教テキストであるフィリピの信徒への手紙を読み、パウロの思いを思いめぐらす中で、「憧れ」という言葉が心に浮かんできました。
パウロはイエス・キリストに憧れているのではないか、との思いを与えられました。
今はパソコンを使って聖書を簡単に調べられます。
「憧れ」という言葉が聖書にあるかどうか調べましたら、一カ所だけありました。
詩編143:8です。
「朝にはどうか、聞かせてください/あなたの慈しみについて。
あなたにわたしは依り頼みます。
行くべき道を教えてください/あなたに、わたしの魂は憧れているのです」。
これは新共同訳ですが、口語訳の聖書では、「わが魂は、あなたを仰ぎ望みます」と訳されています。
私たちは、「憧れ」「憧れる」という言葉は余り使いません。
聖書にも使われていませんし、信仰的ではないのかもしれません。
しかし、わたしは「憧れる」事は大切なことだと思うようになりました。
イエス・キリストに憧れるとき、死を越える希望がたしかにされると説教準備の中で教えられたような気がします。
「兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい」。
わたしを模範にして歩みなさいとパウロは命じます。
それだけでなく、「わたしたちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい」。
パウロたちを模範として歩んでいる人たちが他にもいます。
その人たちにも目を留め、パウロを模範とする歩みをしなさいと命じています。
パウロは、コリントの信徒への手紙一11章でも、同じ事を語っています。
そこではこう語っています。
「わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい」(コリント一11:1)。
パウロ自身も倣う者なのです。
パウロがキリストに倣う者であるように、あなたがたはわたしに倣いなさいとの命令です。
言い換えると、わたしに倣えば、あなたがたはキリストに倣う者となる、との意味です。
キリストに倣う者となりたいなら、わたしを模範とすれば良いのです、とパウロは語っているわけです。
→コリントの信徒への手紙一4章でパウロは、こう書いています。
「そこで、あなたがたに勧めます。
わたしに倣う者になりなさい。
テモテをそちらに遣わしたのは、このことのためです。
彼は、わたしの愛する子で、主において忠実な者であり、至るところのすべての教会でわたしが教えているとおりに、キリスト・イエスに結ばれたわたしの生き方を、あなたがたに思い起こさせることでしょう」(コリント一4:16)。
ここでは、「わたしに倣う者となりなさい」と語り、パウロは自分の生き方を「キリスト・イエスに結ばれたわたしの生き方」と語っています。
キリストに倣う生き方は、キリスト・イエスに結ばれた生き方、と言い換えることができます。
さらに、コリントの信徒への手紙一の1章では、「神は真実な方です。
この神によって、あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです」。
{主イエス・キリストとの交わり」とあります。
こうしてみるとパウロの生き方は、キリスト・イエスに結ばれて生きることであり、イエス・キリストとの交わりに生きること、と色々に表現されています。
→パウロはなぜ、キリストに倣う自分の生き方を見倣いなさいと述べるのでしょうか。
そもそもパウロはクリスチャンを迫害していた人物です。
ダマスコの町に行ってクリスチャンを捕らえようとしていたとき、復活の主イエスから呼びかけられ、イエス・キリストを宣べ伝える者へと変えられた人物です。
彼はそれまでとは真逆の歩みをするようになりました。
クリスチャンを迫害する者から、キリストを宣べ伝える者とされました。
その時、パウロの心に何が起きたのでしょうか。
12節でパウロは、「自分がキリスト・イエスに捕らえられている」と語っています。
パウロはキリストに捕らえられ、キリストを宣べ伝える者とされました。
→キリストとの出会いは、パウロの人生を大きく変えました。
ガラテヤの信徒への手紙では、「 生きているのは、もはやわたしではありません。
キリストがわたしの内に生きておられるのです」(2:20)。
このフィリピの信徒への手紙の1章21節では、「わたしにとって、生きるとはキリストであり」(1:21)と述べています。
さらに「そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています」。
今風に言えば、自分の家柄や学歴、仕事上の業績、自分が得た地位、名誉など、それらは、キリストを知ることと比べれば損失だというのです。
これらのものは、キリストを信じて生きる上で妨げになるというのです。
私たちには自分を誇りたいという思いがあり、誇れるものがあると、それに執着し、そのことが信仰の妨げになりかねません。
パウロは、イエス・キリストをしるすばらしさに心打たれ、イエス・キリストに憧れて、イエス・キリストのような人になりたいと考え、そのように歩むことに全力を注いだのです。
このような憧れを持つことができる、それは幸いなことと言うか、聖霊の導きではないかと考えます。
→このフィリピの信徒への手紙1章8節では、こう書いています。
「わたしが、キリスト・イエスの愛の心で、あなたがた一同のことをどれほど思っているかは、神が証ししてくださいます」。
パウロは、キリスト・イエスの愛の心でフィリピの人たちのことを思っているというのです。
キリストの愛を身をもって示しているというのです。
イエス・キリストに憧れて、イエス・キリストのような人になりたいと考え、そのように歩むことに全力を注いだのです。
キリストを知るあまりのすばらしさ、とパウロは言いますが、その素晴らしさが何であるか、パウロは明確には書いていません。
パウロの書いた手紙を読みながら、キリストのすばらしさを彼がどう理解しているのかを考察する必要があります。
それは今はいたしません。
何よりも大切なことは、私たち自身、キリストを知ることのすばらしさをどう知っているのか、どう感じているか、です。
もし私たちがパウロに倣って歩むとするなら、わたしたちもまたキリスト・イエスを知ることのすばらしさを知っている必要があるのではないでしょうか。
私自身は神さまに召されて救い主キリストを宣べ伝える者とされているわけですから、キリストを知ることのすばらしさを知っていなければなりません。
実はわたしは、このすばらしさについて、向き合ってきませんでした。
自分はキリストを知るすばらしさをどう思うか、向き合って、それを言葉にしてきませんでした。
今回、パウロのことを語るからには、自分は、どう思うのか、向き合って語らなければならないと思いました。
でもそれは今日の説教の主題では無いので、短く語るしか在りませんが、私の思いを紹介します。
→一番は、イエス・キリストは愛の人であったということです。
イエス様はへりくだって死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。
これは父なる神さまへの愛に他なりません。
神さまの前にへりくだり、神さまに従順に歩む、それは神さまへの愛です。
またイエス様は、私たち人間への愛も示されました。
それは十字架の上で典型的に現されました。
愛する者のためにご自分の命を犠牲にするという形で、愛を示されました。
イエス様は神を愛し人を愛する愛の人でした。
→パウロはキリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさと言います。
この「知る」は知識として知ることを意味するのではありません。
体験的、経験的に知るということです。
私たちが赦しがたい人を「どうしてもわたしは赦せません」と言うのではなく、たとえば「赦しがたくとも、赦します」と神さまの前に告白します。
するとイエス様ご自身が、赦しがたい人間である私のために、私に赦しを与えるためにご自分の命を犠牲にしてくださったことが本当に分かるのです。
赦せない辛さの中で赦しを与えるとき、はじめて自分の罪が赦されていることが分かるのです。
そのことが分かると、赦せるようになります。
→あるいは私たちが、「神さま、その教えは無理です。
むずかしいです」と言って、従うことを拒むことがあります。
しかしイエス様は、十字架の死に至るまで、神さまに従順に歩まれました。
「父よ、み心なら、この杯をわたしから取りのけてください。
しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」と祈り、神さまに従ったように、「わたしも従います」と神さまの前に従順になると、私たちのうちにある頑なさが砕かれていくのです。
→イエス様は私たちの模範であり、イエス様に倣うことは大切だと思っています。
イエス様に倣う歩みをすると、私たちもまたイエス様と同じような愛に生きることができるようにされていることを知るのです。
神さまへの愛、他者への愛に生きることができるようにされていることを知ることができます。
私はここにイエス様を知るすばらしさがあると私は思います。
イエス様を知ると、イエス様のようにされていくのです。
私たちは天国の住民なんです。
しかし私たちは今、天ではなく、この地上に生きています。
私たちにとって地上の歩みは、本国を目指す旅です。
では、この地上の歩みには、どんな特徴があるのでしょうか。
12節にはこうあります。
「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。
何とかして捕らえようと努めているのです」。
パウロは何を捕らえようとしているのでしょうか。
→私たちはイエス様を信じて洗礼を受け、新しく生まれ変わります。
そして信仰者としての道を歩みます。
私たちはイエス・キリストとの交わりに生きることになります。
イエス・キリストに倣う歩みをすることになります。
これが信仰者の歩みの特徴です。
私たちの内に、次第にキリストが形作られていくのです。
ですからパウロは、ガラテヤの信徒への手紙の中で「生きているのは、もはやわたしではありません。
キリストがわたしの内に生きておられるのです」と語ります。
そしてガラテヤの信徒に向けて、「わたしの子供たち、キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます」。
→キリストがわたしのうちに生きているとか、キリストが私たちの内に形づくられるというのはイメージ的な表現です。
私たちがキリストに似た者になっていくということです。
私たちがイエス・キリストとの交わりに歩むことを通して、私たちがキリストに似た者になっていくということです。
キリストに似た者となる。
地上の信仰者の歩みの特徴です。
パウロが何とかして捕らえようと努めている、というのはキリストに似た者となっていく歩みを続けているということです。
これは地上の生活においては、完成しません。
→私たち信仰者はこの地上で生きています。
信仰者は、この世の人と同じ生活をしています。
外面的には同じような生活をしています。
たとえば信仰者も結婚生活を送ります。
あるいは独身の生活を続けます。
結婚をして子供ができれば子育てをします。
子供を授からなければ、夫婦だけの生活をします。
さらには年を取り、衰えた体で老いを生きていきます。
私たちは、外面的にはこの世の人と同じ生活をします。
しかし違う点があります。
信仰者は、キリストとの交わりに歩みます。
キリストの心で生きるのです。
キリストのみ心を生きるのです。
地上の歩みはキリストの心で歩み、キリストに似た者となっていくという特長があります。
ここで地上の歩みをする私たちは、キリストがおいでになるのを待っているというのです。
「待っている」、これは切に待ち望むことを意味します。
皆さんは、イエス様がおいでになるのを待っておられますか。
正直に申しますと、私はイエス様がおいでになるのを切に待ち望んではいませんでした。
イエス様がおいでになることは聖書の教えとして理解し、受け入れていますが、イエス様がおいでになるのを切に待ち望むという思いはありませんでした。
聖書には、キリストの再臨、最後の審判という教えがあります。
世の終わりに起きる事柄として、私たちは教えられています。
この終末は、イエス様が今一度この世界においでになることから始まります。
私には、イエス様がおいでになるのを切に待ち望むという思いはありませんでした。
今回の説教を準備する前までは。
待ち望む人になれるなら、そうなりたいとは思っています。
でもどうしたらそうなるのか、分かりませんでした。
でも今回、説教の準備をする中で、分かったような気がしています。
→イエス様がおいでになったときに起きる事柄を待ち望む思いがあるかどうかが大切なんだと思います。
パウロには待ち望む事がありました。
パウロはイエス・キリストに憧れているとお話ししました。
キリストが今一度この世界においでになるとき、この世界は終わりを迎えます。
そして神の国が実現します。
その時、何が起きるかというと、21節。
「キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです」。
わたしたちの「卑しい体」とは、罪を犯す私たち自身のことです。
私たちは信仰に歩むことによって、心が清められ、罪を犯すことは少なくなりますが、完全に罪から清められることはありません。
しかし、イエス様がおいでになると私たちの体は、キリストの栄光ある体と同じ形に変えられるというのです。
つまり憧れのイエス様と同じ体を持つ、言い換えると愛に生きられたイエス様と同じ人間にされるというのです。
ここに罪を犯して生きてきた人間の救いの完成があります。
罪からの救いは、最後の審判で神の国に入ることを赦されるだけではなく、天国の住民としてふさわしい者にされること、つまりイエス様のように罪の汚れがなく、清い者にされる、それが罪からの救いです。
イエス様がおいでになるとき、キリストに憧れたその憧れが実現するのです。
キリストのようになりたいとの憧れが、成就するのです。
心の清い人たちは幸いである。
その人たちは神を見る。
→死を越える希望を確かにする道は、イエス様がおいでになるときに起きる事柄を待ち望むような生活をすることにあることを聖書は教えています。
パウロは、イエス様に憧れ、イエス様に似た者となることを願っていました。
イエス様に憧れて生きる時、死を越える希望をたしかにされていきます。