クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

 列王記下2章


(内容)

  • エリヤは自分が地上の生涯を終えることを知り、エリシャに自分の後継者になることを願い、エリシャを試します。エリシャはエリヤの外套を受け取り、エリヤの後継者として、働きます。水を清め、エリシャのことをはげ頭と罵った子供が熊に襲われて死ぬという出来事は、彼が預言者とされたことを示しています。


(黙想)

  • エリヤは、ギルガル、ベテル、エリコの町でエリシャに同じ事を繰り返して言います。「エリシャ、ここにとどまっていなさい。わたしは○○へ行く」。エリシャがどこまでもエリヤについて行くかどうか、試されます。列王記上19章でエリヤはエリシャに自分の外套を投げます。するとエリシャはエリヤについて行きます。「わたしについてきなさい」とは言いませんでしたが、外套を投げたことは、弟子になるようにとの召しでした。
  • エリシャは「わたしはあなたを離れません」と告げます。これが三度繰り返されます。エリシャがエリヤに従っていく意志が確認されました。するとエリヤは「あなたのために何をしようか。何なりと願いなさい」は語り、エリヤは「あなたの霊の二つの分をわたしに受け継がせてください」と答えます。
  • 「二つの分」とは何かは明らかではありませんが、預言者として神の召しに答えていこうとする意志、志しではないかと考えます。エリヤは「わたしがあなたのもとから取り去られるのを見れば願いはかなえられる」と不思議なことを言います。すると火の戦車が火の馬に引かれて現れ、エリヤは嵐のなか天に上っていきます。するとエリヤの着ていた外套が落ちてきます。エリシャはヨルダン川のほとりでエリヤの外套を丸め、これで川の水を打つと水が二つに分かれ、川を渡ります。不思議な出来事です。
  • この物語を読んで、二つのことを考えます。一つは神の召しということです。私たちは神の召しに、本気で答えることが大切です。エリヤが「ここにとどまっていなさい」と言ったことは、神の召しに応じたくないなら、応じるのをやめてよいことを意味しています。人は、「わたしはふさわしくない」「わたしには力がない」と言って、召しを断ることができます。教会の長老・役員に選出されると、このような言葉を人は口に出します。実際には選挙で選ばれたら断りにくいので、人は与えられた役を受け入れます。その人の心の奥底で、それを神の召しと受けとめて神に仕えていくのか、それとも仕方がないからとか、選ばれた以上はきちんとやろうとか、人間的な思いで引き受けることがあると思います。
  • エリヤは三度エリシャに「ここにとどまっていなさい」と語ったことは、神さまは人を試されるというか、召しに答える気持ちを試されることが何回か起きることを意味します。そういうなかで、人は神の召しに本気で応えていく者とされていくのだと思います。私もかつて自分は本当に牧師として召されているのか、と考えたことがあります。その時は、「あなたが牧師として働きたいと心から願うなら働きなさい」と神さまから言われたような気がして、牧師として召されていると確信したことがあります。
  • 今日の聖書でエリヤがエリシャに「あなたのために何をしようか。何なりと願いなさい」と言ったことです。神さまの召しに答えるとき、神さまは私たちに「あなたのために何をしようか。何なりと願いなさい」とおっしゃるのだと思いました。人は神の召しを受けるとき、自分の力で召しに答えるのではなく、神さまに必要な力を願い、召しに答えることを教えられます。
  • この物語を読んで考えるもう一つのことは、外套です。外套は何を意味しているのか、です。畑を耕していたエリシャのそばをエリヤが通り、その時エリヤは自分の外套をエリシャに投げかけたのです。これは「わたしについてきなさい」ということでした。そしてエリヤが天に上げられたとき、エリシャはエリヤの外套を受け取りました。「エリヤの霊の二つの分」を受け取ったのです。エリシャはエリヤの意志を受け継ぎ、預言者として神に仕える確かな志を与えられたのだと思います。


(聖書が語ること)

☆神はいかなる方か

  • 神さまは、エリヤを天に上げられる方です。エリヤに預言者としての生涯を終わらせ、ご自分のもとに召されました。神さまはご自分の働きに召した者をしかるべき時にご自分のもとに召される方です。

☆神が求める私たちの生き方

  • 私たちは時にふるいにかけられ、本気で召しに答えるかを試されることがあります。もし自分が召されていないと考えるなら、やめる自由があります。「ここにとどまっていなさい」はやめる自由があることを示しています。
  • 召しに答えるために、召しに本当に答えるために必要なものを神さまに求めること
  • 召しに答える者は命ある限り、召しに答えていくこと


(実践に向けて)

  • 今週、おもいがけない手紙を受け取りました。年老いてなお福音宣教のために仕えておられる方です。奥様を喪い、一人で暮らしながら、なお宣教の業に仕えておられます。何で今、このような手紙を受け取ったのかと考えました。エリシャがエリヤの志を継いだように、私もまたこの方を模範として歩むようにと神さまからの召しをいただいたような思いがしました。
  • 「あなたのために何をしようか。何なりと願いなさい」と神さまの声を心で聞きました。召しに答えていくために何を願うのか、考えます。今、インターネットに新しいサイトを開設して、自分なりに宣教の業に仕えることを願っています。「何なりと願いなさい」との神さまのお言葉をありがたく受け取り、何を求めるのか、考えることにします。