No.5 神に対して真実な人生
先日ある信仰者に「年老いて痛みを抱え、病いを抱えて生きるってどんなものですか」と尋ねました。「時々、何故、こうなのと神様に言うことはありますね。でも、祈ってみんな解決したら自分は傲慢になると思う。痛みも神の恵みかもしれない。この間、姪の家族と一緒に温泉に行った時、姪が自分を背負ってくれた。そのことがとてもうれしかった。人の愛を受けることはうれしいこと」。こんなことを話して下さいました。
今朝読み終えた本に「真実な人生に敗北はない」と書いてあり、触発を受けました。人が老いて、病や痛みを負う、それは喜んで受け入れることのできることではありません。でも聖書には「すべてのことを感謝しなさい」とあるのです。信仰者はどう受け入れたらよいのか、また自分はどういう老いを過ごすのかと思いめぐらします。
十字の園には先日洗礼を受けたお年寄りがおります。毎週木曜、十字の園の朝の礼拝の説教に行くとき、妻がこの方を連れて礼拝に出席します。いつも手を胸に当てています。それは病気のための痛みが慢性的にあるからです。礼拝の後、この方の部屋を訪ねて、しばらくの時を過ごし、最後に祈りますが、その痛みが消えるように祈ります。子供が痛みを我慢しているのを平然と見ていることのできる親がいないように、神様も私たちが痛みで苦しんでいるのを平然と見ていることはできない、だから「求めれば癒して下さる」と私は信じて、その方の痛みがなくなることを祈っています。
「信仰がなければ神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神はご自分を求める者たちに報いて下さる方であることを、信じていなければならないからです」と聖書にあります。さらに「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」ともあります。このお年寄りにとって、神を信じるとは、まず痛みを取り去っていただくことだと思うのです。私たちはあきらめて生きるのではなく、神様に期待して生きる信仰者だからです。だから痛みがなくなるまで、徹底して祈り続け、神様に期待しましょうと、私は語り続けるつもりです。
祈れば、必ず痛みはなくなるのか。それは私にはわかりません。冒頭に引用した信仰者の言葉は、癒しだけが神様の解決ではないことを示しています。痛みはあるけれど、他者の愛に感謝できることは、痛みによる苦しみ以上の喜びなのです。神様は私たち一人一人にふさわしい人生を用意しておられ、私たちが神様を賛美できるように、神様が導いて下さる、それがわたしの確信です。神に対して「真実な人生に敗北はない」。
(1997年12月08日)