クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

 今、カルチャーラジオ歴史再発見というNHKのラジオ番組で「ルターと宗教改革500年」と題して、13回シリーズのお話が聞けます。話の内容を文章化したテキストも販売されています。テキストを放送より先にザアッと読みました。「やっぱりそうなんだ、そうなのか」と思う文章がありましたので紹介します。これは第12回の放送で、12月の放送になります。第12回では、ルターと親鸞が比較されています。共通点があるというのです。その中でこんな文章があります。

「また人間であれば、どうしても死を喜べない心があります。仏の慈悲によって極楽浄土、間違いなしと言われても、あるいは神の恵みによって天国の救いが用意されていると確信しても、それでも喜べない心があるものです」。

弟子の唯円が念仏しても楽しいはずの浄土に行きたくないのはなぜでしょうか尋ねると親鸞はこう答えました。

親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり。よくよく案じてみれば、天におどり地におどるほどによろこぶべきことを、よろこばぬにて、いよいよ往生は一定おもひたまふなり」。

喜ぶべきことを喜べない罪を持つゆえに、往生はいよいよ間違いない、と親鸞は答えたというのです。

ルターも似たようなことを語っているとルターの言葉を紹介します。

「いつ死ぬかよく知っている。どこへ行くかよく知っている。私が必ずしも喜んでいないことについて驚いている」。

 僕も自分が死ぬことについて考えるわけですが、人間は死ぬものだと諦めて死ぬことはいやだと思っています。聖書的に・神学的に考えて、喜んで受け入れるにはどう考えたらよいか、と思いめぐらします。理屈の上では喜ぶべきであり、また喜べるのに、感情がついていかないのです。理屈では感情を説得できないのです。ということはいくら考えても無駄?


東大寺
奈良公園を散歩しながら、自分はこの世の生活に慣れ親しんできたので、この世を去ることが喜べないのだと思いました。


自分だけではなかった、親鸞も、ルターも、同じなんだ。この文章を読めただけで、このテキストを買った甲斐がありました。