クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

いさみて のぼらん

 7日(日)の奈良高畑教会の礼拝は、教会学校との合同礼拝でした。礼拝後、出席した子供たちがそれぞれ自己紹介をし、その後、牧師が一人一人に手を置いて祈りました。私も幼児祝福の時を礼拝の中でもち、子供たちのために祈ったことを思い出しました。

 説教後の讃美歌は「主われを愛す」でした。「主われを愛す」を賛美しながら、特に3番の「御国(みくに)の門(かど)を 開きて我を 招きたまえり 勇みてのぼらん」が心にしみました。「いさみてのぼらん」、いいですね。そうしたいと思います。天に向かって空中を歩いて登っていくとするなら、喜びでルンルン、足取りが軽くなります。喜びで胸が裂けそうになるかもしれません。

 月曜日朝早く目覚めたとき、この讃美歌を思い出し、心の中で歌い出したのですが、2、3番の出だしの歌詞が出てきません。前の日に歌ったのに!「あ、い、う」とゆっくり心の中で発音しながら、歌詞が出てこないかと思ったのですが、出てきませんでした。覚えていたものも思い出せなくなる、残念ながら老化現象です。

 聖書や讃美歌には、「死ぬ」ことについて、色々なイメージがあります。僕はそれらのイメージが好きです。「主われを愛す」では、「いさみてのぼらん」です。讃美歌の348番には「やがてまたも くだりたもう わが主よ 主のみもとに とわに住みて つかえまほし わが主よ」。赤い線が引いてあります。死の床についたときは、讃美歌の言葉や聖書の言葉を思い起こし、色々なイメージを思いめぐらし、最後の時を迎えたいと思っています。

 テモテの手紙の二4章6~8節は好きな言葉で、葬儀説教でも何回か取り上げました。紹介します。

 「わたし自身は、既にいけにえとして献げられています。世を去る時が近づきました。わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます」。

 義の栄冠を受ける、光栄なことです。

 

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ナンキンハゼという木で中国から入ってきたそうです。繁殖力が強い木です。