クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

届いた葉書がうれしい

 今日はうれしいことがありました。先日隠退牧師の集いがあり、私は開会礼拝の説教を担当しました。その説教に対する応答の葉書をいただいたのです。葉書をくださった先生の心をうれしく思いました。それでその説教をブログに載せようと思いました。是非、読んでください。要点は、伝道の困難を覚えている教会に対して、イエス様は何と言われるだろうか、ということを考えたい、そして教会の現実の一つの問題点を挙げました。私に喜びを与えてくださった神さまに感謝し、神さまをたたえます。

 

聖書 ヨハネ黙示録 1:9~20
説教 主の声を聴く
2018/10/9

→今日はヨハネ黙示録1章9~20節を読みました。
ヨハネという人物が登場します。
9節で「わたしは、神の言葉とイエスの証しのゆえに、
パトモスと呼ばれる島にいた」とあります。
ヨハネは、キリストのゆえの迫害を受け、
パトモス島に連れて行かれた、
つまりヨハネは流刑の身であったと想像できます。

→ある主の日、
ヨハネは自分に語りかける大きな声を聞きました。
そこから彼の見た幻が始まります。
ヨハネが聞いた声、その声の主はイエス・キリストです。
そのことは、その声の主が自分のことを
「一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きて、
死と陰府の鍵を持っている」と語っているので、明らかです。

→その声を聞いてヨハネは振り返りました。
すると七つの金の燭台が見え、
その真ん中に主イエスはおられたのです。
金の燭台は教会を意味しています。
主イエスは七つの金の燭台の中央におられました。
これは何を意味しているのでしょうか。
主イエスは、七つの教会に臨在しておられるのです。
七つの教会は、主イエスのご支配の中に置かれているのです。
主イエスは、七つの教会のことを心に留めておられるのです。
七つの教会は主イエスのご配慮の中に置かれているのです。

→この幻の中でヨハネは、主イエスから委託を受けます。
11節では、「あなたの見ていることを巻物に書いて、
エフェソ、スミルナ、ペルガモン、ティアティラ、サルディス、
フィラデルフィア
ラオディキアの七つの教会に送れ」とあります。
19節では、「さあ、見たことを、今あることを、今後起ころうとしていることを書き留めよ」とあります。

ヨハネ黙示録の2~3章には、
「こう書き送れ」との主イエスの命令によって書かれた手紙があります。
七つの教会それぞれに宛てられた手紙です。
どの手紙にも「私は知っている」という主イエスの言葉があり、
主イエスは、
それぞれの教会のことをよく知っていることを伝え、
それぞれの教会の実情を語り、問題点を指摘し、
悔い改めるように勧告を与えています。
そして祝福を告げられます。

→このヨハネは9節で、「わたしはあなたがたの兄弟であり、
共にイエスと結ばれて、その苦難、支配、忍耐にあずかっている」と書いています。
このことからヨハネは七つの教会とは深い関わりのあった人物であることがわかります。
ですから、
2~3章にある七つの教会宛の手紙に書かれている教会の実情と
それに対する勧告は
実はヨハネ自身が知っている七つの教会の実情であり、
ヨハネ自身が伝えたい勧告であるという面もあると思います。

 



→主イエスは、今も生きておられる方です。
主イエスは私たちと共におられる方です。
主イエスは、この現代においても、教会に臨在される方です。
どの教会も主イエスのご臨在を信じて主の日ごとに礼拝を献げています。

→そこで思います。
主イエス日本基督教団の諸教会のことをよくご存じの方であり、
諸教会を導こうとされていることを私たちは信じることができますし、
信じます。
主イエスは、私たちの教会に対しても、
私はあなたのことを知っていると言われ、
悔い改めを迫り、祝福を告げられるのではないでしょうか。

ヨハネはパトモス島にいました。
そして私たちは隠居住まいをしています。
主イエスは、
「さあ、見たことを、今あることを、今後起ころうとしていることを書き留めよ」と
私たちにも語っておられるのではないでしょうか。

→私たちは伝道者としての生活の中で、教会に仕える中で、
教会を具体的に見てきました。
自分が仕える教会を、近隣の教会を、
そして日本基督教団の現実を見てきました。
そして今、教会に連なり礼拝に出席しています。
そして今、礼拝に出席する中で、教会の今の現実を見ています。

→私たちは、日本基督教団の教会を長い間牧会してきました。
私たちは説教に励み、牧会に努めてきました。
教会員も財を持って、つまり献金を献げ、
あるいは教会の働きを担い
奉仕をして教会を支えてきました。
主イエスは、
そのような私たちの努力を知っていると言われると私は信じます。
「しかし、私はあなたがたに言う」と主イエスは、
私たちに、わたしたちの教会に対して、
悔い改めを求められる方であると信じます。

→教会にとって教会員の高齢化は大きな課題です。
教会の存続に関わる課題です。
そして伝道が思うように進展しないことも大きな課題です。
これらの課題に対して、教会は、自分の無力さの前に、
立ち尽くしているように見えます。
確かに私たちは、教会のあるべき姿、
信仰者のあるべき姿を聖書から教えられ、
説教をし、また教会を形成し、
信徒の育成に力を注いできました。
でも何か厚い壁のようなものがあって、
教会はなかなか変わらない、
信仰者もなかなか変わらない、
そういう現実にも直面してきました。
地方の教会では、自立していくことができず、
教会の合併が起きています。
主イエスには、わたしたちの教会に向かって
おっしゃりたいことがあるはずです。

ヨハネは今後起きることについて幻を見ました。
それをアジア州の諸教会に伝えました。
それはヨハネ黙示録として私たちにも届けられています。
今後私たちが牧会した教会がどうなっていくか、
日本基督教団がどうなっていくのか、
主イエスがどのように教会を導かれるのか、
私たちには分かりませんし、
主イエスによって「示し」を受けてもいません。
そして私たちは隠退をしています。

→ある隠退牧師が「後悔だけが残る」と話されたことを忘れることはできません。
自分の力不足を言われたのかも知れません。
でも私たちの無力は当たり前のことです。
もし後悔を語るよりも、
主イエスが私たちの教会に語ろうとすることを思いめぐらしたいと思うのです。
私たちは教会の現実を見てきたし、今も見ています。

→主イエスは、
「さあ、見たことを、今あることを、今後起ころうとしていることを書き留めよ」と
おっしゃいました。
そこで私が見たこと、今あることのひとつをお話しします。
そしてここには、悔い改めるべきことがあると思います。

→それは神をたたえるということです。
詩編には神さまをたたえる言葉が豊かに出てきます。
しかし私たちの口から、神さまに対する感謝の言葉は出てきても
神さまをたたえる言葉は非常に少ないのです。
私は隠退後いくつかの教会で説教の奉仕をしました。
どの教会でも司式者の祈りに一つの共通点がありました。
祈りの最初に神さまをほめたたえる言葉が出てきますが、
それはいわば祈りの最初のお決まり言葉に聞こえます。
それ以降、感謝の言葉は出てきても、
神をたたえる言葉はありません。
正直に言えば、私自身の祈りも、この傾向を持っています。
神をたたえる言葉が出てこない、
これは何を意味しているのでしょうか。
この現実に対して主イエスは何を言われるのかと考えます。
何を悔い改めよとおっしゃるのかと考えます。

→私にはこの問題はむずかしくて模索中です。
でも教会に潜んでいる問題を明らかにし、
それに取り組む課題は隠退牧師にも
与えられているのではないか、と言い聞かせています。