holalaのブログ

隠退(引退)牧師holalaのブログです。

わかってはいるけど・・・

 何が分かっているかというと、信じる者にとって確かさは聖書の言葉にあるということです。確信をもって信じることができる根拠は聖書にあるということです。確信の根拠を自分の中に持つことはできません。

 確信をもって信仰に生きること、それはいつも私の課題でした。不安はいやです。そしてたどり着いた結論は、信仰の基本は聖書の言葉を真理と信じることにあると考えるようになりました。聖書の言葉が真理である、そこに確信の根拠があります。このことを分かっているのです。しかし確信には疑いが伴うものです。

 だいぶ前のことになりますが、4人の子どものうち3人が同時に大学に在学するという事態になりました。教育費が足りなくなりました。その時、聖書にある神の約束を支えにしました。聖書の言葉はフィリピの信徒への手紙4章19節です。

「わたしの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます」。


 ここには神さまは私たちの必要を満たしてくださる、との約束があります。そこでこの約束をしっかりと握りしめ、神さまに祈り続けました。そして神さまに必要を満たしていただきました。必要を満たす神さまの約束は真実だったと確認しました。この世の生活における神さまの約束はそれに信頼し、その約束が確かであることを確認し、それが真理であることを証しすることができるのです。ところが聖書には確かめることのできない約束があります。

 それは、私たちの死後に関わる約束です。これは確かめることはできません。ただ信じるだけです。この約束は聖書に書いてあるので確かな約束と信じるべきです。それが信仰です。しかしここに「分かってはいるけど」が口から出てきます。疑いが頭をもたげてくるのです。そんな私に宗教改革者ルターの言葉が響いてきました。『キリスト者の自由』(徳善義和訳 教文館)の中に出てくる言葉です。長いけど引用します。

「他の人を信じる場合には、その人を義(ただ)しい、真実な人と思うからこそ信じるのであって、これは、ひとりの人間が他の人間になしうる最大の栄誉である。逆に、他人をだらしない、嘘つきの、軽薄な人と思うならば、これは最大の侮辱である。このように魂も神のことばを堅く信じるならば、魂は神を真実で、義で、正しい方であると考え、そうすることによって自分がなしうる最大の栄誉を神に帰しているのである」。

 このルターの言葉は、私に神をたたえるよう教えてくれました。神をたたえることがあの疑いに勝利する道なのでした。感謝。神さまあなたをたたえます。

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↑日曜日礼拝説教奉仕をしたG教会の礼拝堂