クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

アイデンティティー(5)

 アイデンティティーを意識した最初の説教は、金沢にいたとき、地区の集会で行ったように記憶しています。聖書はマタイ福音書5章の言葉を取り上げました。

「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない・・・」。

 「あなたがたは地の塩である。あなたがたは世の光である」とイエス様は弟子たちに教えられました。「あなたがたは地の塩になりなさい、世の光になりなさい」と命じられてはいません。そうではなく、あなたがたは地の塩なのだ、世の光なのだ、と断定しておられるのです。弟子たちは何者なのか、アイデンティティーが示されています。私の説教を聞いた人は戸惑ったのではないかと思います。自分が地の塩、世の光だなんて、そうは思えないとの感想を持ったに違いないからです。「地の塩になりましょう、世の光になりましょう」という説教なら、聞き手は納得して説教を聞くことができたと思います。

 多くの信仰者はこの聖書の言葉を読んで、自分は地の塩となるように、世の光となるように教えられていると受けとめています。そして自分が必ずしも地の塩になれていない、世の光になれていないという思い、引け目を感じています。実に多くのクリスチャンが引け目を感じて生きているのではないかとわたしは推測しています。

 イエス様は教えられました。「あなたは地の塩である。世の光である」。私は、イエス様が私のことを「地の塩である、世の光である」と言ってくださることを喜びます。「お前が地の塩、世の光? そんな風には見えないぞ」と悪魔が言ったとしても、気にしません。私はイエス様の言葉を信じます。

 すると何が起こるのでしょうか。私は地の塩として生きていこう、世の光として生きて行こうとの思いに導かれます。どうしたら地の塩として歩めるのか、世の光として生きるのか、具体的なことを考えることができます。「しなければならない」との思いからではなく、喜びのゆえに「したい」との思いからするのです。ここに私は律法から解放されて、自由に生きる信仰者の姿を見る思いがします。

 そして自分なりに地の塩、世の光として何かをすることができたら、それを喜ぶことができます。このことの繰り返しにより、自分は地の塩になっている、世の光になっていると実感することができるようになります。

 世の光、地の塩としての実態を備えていない私たちに、その内実があるかのように呼んでくださるのは恵みです。この恵みが私たちを生かします。そしてこのアイデンティティーを喜んで受け入れることができるのは、聖霊のお働きによります。なぜなら、内実のない自分が地の塩、世の光であると信じることは通常の理性からすれば愚かなことだからです。「うぬぼれるな」と人から言われるかも知れません。

 地の塩、世の光を大げさに考える必要はありません。何か社会に対して影響を与えるようなことをしなければ、地の塩ではない、世の光ではないと考える必要はないと思います。私たちの日常の生活の中で、聖書の教えに従って歩めば、つまり聖書の言葉を適用して生きるなら、私たちは地の塩、世の光なのです。さらに、このような信仰者の歩みを分かち合う教会になるなら、教会は福音を世に照らし出す教会になると信じます。

 詩編119編105節の言葉を紹介します。  

「あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯」。

 私たちはただ御言葉に生かされるに過ぎません。御言葉が私たちを地の塩、世の光にしてくれることを実感させてくれます。

 

f:id:holala:20181107173653j:plain

↑毎朝飲む野菜スープ。キャベツ、にんじん、玉ねぎ、サツマイモ、レンコン、ごぼうを、野菜の量の三倍の水で煮て、ブレンダーで砕いてポタージュふうにしたもの。調味料は一切使わず、野菜の味がおいしいです。一回で二人分三食分作ります。