自分はアイデンティティどおりの人間である、これが「私」についての真理です。
信仰者としての私のアイデンティティーは、現実の私、実感できる私とは違っています。私は神の子、正しい者、世の光、地の塩、神のもの、といっても、そうは思えないと感じ、自分がアイデンティティーとかけ離れているように思えるものです。そこで区別が必要です。アイデンティティーで示される私は、「信仰上の事実」としての私です。それは実感される自分、「経験される事実」としての自分とは区別されなければなりません。
「信仰によって義とされる」ことを信じるとき、義とされる私は、不敬虔な私です。経験され、実感される私は不敬虔な私です。その私が義とされていることを信じます。私が義とされている、私は義とされている人間である、これは信仰上の事実です。そして私が義とされた人間であることを真理として、私たちは信じます。
神さまが私たちを見るとき、私たちをアイデンティティーどおりの者とご覧になります。放蕩息子のたとえで、落ちぶれて帰ってきた弟息子を父は、大切な息子が帰ってきたと喜びました。落ちぶれても、財産をすべて使い果たすような息子でも、父の目には「大切な息子」なのです。弟息子は、自分は息子と呼ばれる資格はありません、自分を雇い人の一人として扱って欲しい、と父に願いました。現実には、放蕩で身を持ち崩すような、どうしようない自分です。どうしようもない息子、これが「経験される事実」としての自分です。弟息子は、自分に対する父の取り扱いを見て、自分は父の「大切な子」であると信じます。そして大切なことしていきます。父が与えてくれたものを身につけ、祝宴に臨みます。
私たちは、自分のアイデンティティーを信じるのです。神の目には、私はアイデンティティーどおりの信仰者なのです。信仰上の事実として。神の子であり、世の光でです。私たちは、自分がアイデンティティーどおりの者であると信じるのです。信じることができなければ、まずは、そのように考えるのです。
あの放蕩息子は、父にとって自分は「大切な息子」というアイデンティティーを受け入れました。身を持ち崩し落ちぶれて父のもとに帰ってきた自分は、自分の目にも情けない人間です。でも情けないという自己像を捨て、父にとって大切な息子、というアイデンティティーに彼は生きるのです。自分はどうしようもない人間だと考えて生きるより、父に愛されている大切な息子なんだと考えて生きる方が何とうれしいことでしょうか。
もし私たちが「神の子でなければならない」と考えて、神の子になろうとしたらどうなるでしょうか。神の子らしくあらねばならない、神の子らしく行動しなければならない、と律法主義の中に落ち込みます。しかし、神の子として生きていこうと考えるなら、そこには喜びと自由があります。神の子として喜んで父の教えに従った生きるからです。ここには律法主義からの解放があり、律法の成就を目指す歩みがあります。
自分はアイデンティティどおりの人間である、これが私についての真理です。
↑ キンピラです。ごぼうとにんじんを切って電気式無水鍋に入れ、スイッチ、ポンで蒸しました。蒸し上がったら調味料を加えて混ぜて出来上がり。野菜のもつおいしさをそのまま味わうことができました。「香りがいいね」と妻。私の定番です。