今日は和歌山県のG教会への礼拝説教奉仕でした。よい天気で気持ちのよい旅ができました。帰り大阪の天王寺駅から奈良行きの大和路快速に乗り、思いめぐらしていると前の席に座っている男性が「この電車は関空(関西空港駅)に行きますか」と聞いてきたので、「電車の方向が反対ですね。戻って天王寺の駅で乗り換えなければなりません」と伝えました。快速なので次の駅に止まるまで電車は10分以上走り続けました。彼にとって長い10分だったと思います。予定の飛行機に乗れるのだろうか、などと心配になり、無事に関空につけるようにと心の中に祈りました。ようやく停車した駅で降りるとき、彼は一礼をしたので、私も一礼しました。ささやかな触れあいでしたが、祈ることができてよかったと思いました。
私が思いめぐらしていたのは、私にとって一番大切なアイデンティティーは「神の子」ですが、なぜ、このアイデンティティーを知ることが大事なのか、を思いめぐらしていました。
私は「神の子」というアイデンティティーに生きることができたとき、平安になりました。神の子というアイデンティティーに生きればいいのだ、と思ったとき、私は自分を受け入れることができたように思いました。
人にはなりたい自分となるべき自分がありますが、到達すべき自分になかなかなれない悩みがあると思います。自分で自分を受け入れることができないのです。もし宇宙で自分一人しかいなければ、なりたい自分、あるべき自分など考えません。色んな人との関わりの中に生きているので、自分はどうあったらよいのかと人は悩みます。私の妻は親との関係で良い子にならなければと子ども時代を過ごしました。「良い子」というアイデンティティーに生きようとしたのです。
人は他者との関係の中で自分のあり様を捜すようです。その他者の中に自分もいるんですね。牧師になり、あるべき自分、なるべき自分になろうと努力しましたが、なかなか思い通りには行かず、自分はこれでいいのか、という思いが常にありました。焦りと達成できない不満足感、敗北感みたいなものがありました。
しかしある時悟ったのです。「神さまがご覧になる自分が本当の自分なのだ」と。そして神さまは私を神の子と見てくださる。それを思ったとき、あるべき自分、なるべき自分になれなくてもよいのだと悟りました。あるべき自分、なるべき自分ではなく、神の子として生きることが一番大事だと知りました。神の子として牧師の働きをすればよいのだと知り、平安になりました。
私が神の子であり、神さまが天の父なる神様なら、父なる神様の導きに従えば、牧師の務めを果たせる、そう考えて平安になりました。
「神の子」、それは私にとって一番大切なアイデンティティーです。
↑ 駅に行く途中、柿の実がなっていました。奈良は柿の木が多いです。