holalaのブログ

隠退(引退)牧師holalaのブログです。

アイデンティティー(10)

 アイデンティティーを考えていくときに直面するのは、私たちの罪です。恵みとしてアイデンティティーを受け取り、応答として、アイデンティティー通りの人間として生きようとするとき、そのことに抵抗する思いが、私たちのうちに働きます。こうして私たちの罪が明らかにされます。

 たとえば「私たちは神のもの」というアイデンティティーがあります。神に所属するというアイデンティティーです。

「知れ、主こそ神であると。主はわたしたちを造られた。わたしたちは主のもの、その民/主に養われる羊の群れ」(詩編100:3)。

「神に属する者は神の言葉を聞く」(ヨハネ8:47)。

 

 私は神のもの、そんな考えはいやです。私が誰かの所有物だなんて考えたくありません。私は自由な人間として生きていきたいです。こういう思いが私たちにはあります。信仰者なら神さまの教えに従うのが当たり前とだれもが考えますが、時に、その教えはむずかしいとか、困難だとか言って、神の教えに従おうとしません。人間には自分の思い・自分の考えに従って生きて行きたいとの強い思いがあります。建前としては神の教えに従うべきだと言いながら、本音では自分の思いで生きようとするのです。そして自分は罪深い人間だと思いながらも、赦しをいただいていると考え、まあよいのではないか、と中途半端な生き方しかできない、そういうことがおきます。するとアイデンティティーなど考えない方が楽になります。

 あるいは、私たちには、「キリストの体の部分」というアイデンティティーがあります。

「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」(コリント一12:27)。

とすれば、キリストの体の部分として歩むことが信仰者にふさわしい歩みとなります。教会の一員として自分の賜物を用いて教会の働きに仕えます。他の教会員を愛していきます。しかし忙しいからとか、教会に来てまで人間関係でいやな思いをしたくないとか言って、礼拝が終わればすぐ帰り、ほかの信仰者との関わりを持とうとしないことがあります。こういう歩みをしていても、人はそれがおかしいとは考えません。しかしアイデンティティーを考えるとき、自分の信仰者としての姿勢を顧みることができます。

 私たちに対する神さまの思いははっきりしています。

天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです」(エフェソ1:4~5)。

 私たちは聖なる者、汚れのない者になるように召されています。このことを受けとめるために私は、信仰者のアイデンティティーを考えます。そして真に、神の子として生きることを目指します。神さまはご自身がいかなる方かを、つまりアイデンティティーを明らかにされ、ご自身を信じるように招いておられます。そして私たち信仰者のアイデンティティーがいかなるものかを教えてくださいます。アイデンティティー通りの者であると信じ、そのアイデンティティーに生きる者となろうとすることは、神さまの愛への応答となります。つまり神さまを愛することとなります。私たちは祝福された歩みをすることができます。まことの人間になることができます。アイデンティティーを考えることは、私たちの罪を浮かび上がらせることにつながりますが、それはさらに私たちをアイデンティティー通りの信仰者へと導きます。

 

健全な自己像は、「神がご覧になるようにあなた自身を見ること~~~それ以上でもなく、それ以下でもない」
(『自己の再発見』、ジョシュ・マクドウェル著)