クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

私たちのうちに潜む問題

 あれは金沢元町教会に赴任して間もない頃でした。僕が56歳くらいのことだったと思います。牧師になったのが35歳だから、およそ20年後のことです。ある集会で講師が礼拝の司式者の祈りについて言及しました。わたしたちの教会では、長老あるいは役員が司式を務めることが多いです。司式者の祈りの中で罪の告白の祈りがなされますが、講師はその祈りの問題点を指摘しました。僕はその指摘に深く共感しました。僕自身もその問題点を認識していましたから。

 司式者の罪の告白の祈りは以下のようなものです。

  • 一週間、神さまのことを思うこと少なく、自分の思いで生きてきた。
  • 忙しさに流され、聖書を読むことも少なかった。
  • 礼拝で聴いた御言葉を忘れ、日々の生活で悩みの中にあった。
  • 罪を犯す日々を過ごしてきた。
  • でもそんな私たちを神は赦され、今御前に出て礼拝をさげることができることを感謝する。

 ある教会で奉仕をしたときの長老の祈りを録音から文章にしてみました。

 恵み深い神さま、あなたは私たち罪人の救いのために御子イエス・キリストをこの世に賜り、私たちを義なる者としてくださった恵みに心から感謝いたします。私たちはあなたによって命を与えられ、生かされ、御手の中で、支えられ、守られて日々を歩む者であります。

 しかしながら先週の礼拝から今日までのわずか七日間のおのれの歩みを顧みるとき、いただいた恵みの御言葉の教えを忘れ、御旨を尋ね求めることをせず、信仰の核心(確信?)から外れて道に迷い、み顔を仰ぐことも忘れて、身の回りの悩み事に右往左往する愚かな日々を送ってきたことに気づかされます。

 しかし、あなたはそのような私たちをも見捨てることをなさらず、いつも共にいてくださり、見えない力によって、私たちの歩みを導き、危険から守り、崩れそうになる足もとを支えてくださった深いご自愛にゆだね心から感謝します。

 

 間違ったことが祈られているわけではありません。しかし福音に生きようとしている人の祈りなのだろうかと疑問を持ってしまうのです。「御言葉の教えを忘れ、御旨を尋ねることをせず、御顔を仰ぐことを忘れ」。

 もし未信者の人がこのような祈りを聞いたら、果たしてクリスチャンになりたいと思うだろうか、とさえ思います。クリスチャンってなんか真剣さに欠ける人に思えたりします。大事なことを忘れ、大切なことをしようとしないのですから。私たちを神から引き離そうとする悪魔の支配下におかれた信仰者の姿に見えます。罪の奴隷です。

 隠退後いくつかの教会の礼拝に奉仕しました。そこでも同様の祈りを聞きました。私はこれが問題であると考えていますが、今もこのような祈りがなされているということは、問題と考えられていない現実があるということです。どうなのでしょうか。講師の先生は問題があると指摘しました。

 

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散歩の途中の紅葉した木