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隠退牧師 holala によるブログ

真剣な悔い改めがない

 礼拝における司式者の祈りで罪の告白の祈りについて問題を感じると書きました。その問題点の第一は、真剣な悔い改めがないということです。同じような罪の告白の祈りが毎週なされるということは、真剣な悔い改めがなされていないことを明らかにしています。もし真剣な悔い改めがなされていれば、祈りが変わってくるはずです。

 ダビデの祈りとされる詩編51で、次のような罪の告白がなされます。

あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し/御目に悪事と見られることをしました。

そしてダビデは罪からの清めを願っています。

神よ、わたしを憐れんでください/御慈しみをもって。深い御憐れみをもって/背きの罪をぬぐってください。
わたしの咎をことごとく洗い/罪から清めてください。

 罪の清めを願い求めています。罪からの清めは、人間の努力で得られるものではなく、神の恵みによって得られるものであることを知っているダビデは、

神よ、わたしの内に清い心を創造し(51:12)

と祈っています。この祈りは真剣な悔い改めの到着点を示しています。礼拝の司式者の罪の告白の祈りで、「清い心を創造し」との願いが祈られるのを聞いた記憶はありません。大抵、罪を告白し、「このような私たちをあなたは赦し受け入れてくださることを感謝します」と祈られます。悔い改めの表明のない罪の告白を神さまはどう思われるのか、と考えてしまいます。

 ダビデは祈ります。

「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を/神よ、あなたは侮られません」(詩編51:19)。

 「打ち砕かれ悔いる心」は、聖霊の導きによって与えられるものであると私は考えています。自分の頭で、自分の行いをまずかったと悔いても、それは打ち砕かれたとは言えないと考えます。私たちが聖霊の導きを得てみ言葉によって生きようとしているとき、聖霊は、罪を犯す私たちを打ち砕かれるのではないかと私は考えています。そしてこれは私の経験でもあります。

 では、お前は、罪の告白をどのように祈るのかと聞かれる方がおられると思います。今年度無牧の教会で説教奉仕をしていますが、月一回は私が司式を担当します。私は祈りの原稿を作りますが、正直、苦労します。自分の信仰が問われているからです。10月の礼拝の司式をしたときの祈りを紹介します。

 天の父なる神さま、私たちを憐れんでください。あなたの教えを素直に受けとめず、自分の思いに走ってしまう私を憐れんでください。分かっていながら犯してしまう罪、それを正そうともせず、赦していただけるからと甘えてしまう私を憐れんでください。私たちに罪に打ち勝つ力を与えてくださっているのに、そのことを信じないで、自分の力で戦い、その結果罪に負けてしまう高慢な私を憐れんでください。

 本心から罪を憎み、あなたに立ち帰る者としてください。福音は信じる者には神の力です。福音とは何か、説教を通して教えてください。また日々聖書を読む中で、何が福音であるかを教えてください。自分の力で生きることを悔い改め、あなたのみ言葉に立ち帰らせてください。