ブログの日記に<説教・死を越える希望>というカテゴリーを作りました。
2017年度無牧の教会の礼拝の奉仕をしました。説教は、死を越える希望をテーマにして、行いました。自分のために、高齢の信徒の励ましになるようにと願って。どんな説教をしたのか、読み返せるようにカテゴリーを設けました。このページの右側のカテゴリーの中の<説教・死を越える希望>をクリックすると説教が全部選び出されます。
録音を忘れた昨年11月の説教です。
→今日の聖書は、いわゆる最後の審判と呼ばれるものです。
私たちは礼拝の中で使徒信条を告白しています。
イエス・キリストは、生きている者と死んでいる者とを裁くために、
もう一度この世界においでになることを信じます、と告白しています。
今日は、マタイ福音書の25章の箇所から
神さまのみ心に聞いてみたいと思います。
最も小さな者とは誰かということです。
もう一つの疑問は、人は行いによって救われていると
今日の聖書箇所が語っているように見えますが、
人は信仰によって救われるとの教えとどう調和するのかという疑問です。
→まず最初に「最も小さい者」が誰なのかを考えます。
「小さい者」という言葉はマタイ福音書に何回か出てきます。
10章42節にこうあります。
「はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」。
ここでは小さなものとはイエス様の弟子を指しています。
つまり福音を宣べ伝えるために旅をしている弟子たちに水を一杯でも飲ませる人は、報いを受けるという意味です。
今日の聖書でも「喉が渇いていたときに飲ませ」とあります。
「この最も小さな者」は福音を宣べ伝える人という解釈が生まれます。
→あるいは18章6節には、こうあります。
「しかし、わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである」。
この場合の小さな者は、信仰の初心者を指します。
このような人たちを惑わし、信仰から離れさせることがここで咎められています。
信仰の初心者は、今日の箇所には当てはまらないと思います。
→さらに18章10節にこうあります。
「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである」。
ここでは小さな者とは、人から軽んじられる人を意味しています。人から軽んじられていても、神は彼らを顧みておられるというのです。
私は今日のマタイ25章の「最も小さな者」とは、
このように、人から軽んじられる人、しかも多くの人から軽んじられてしまうような人たちと解釈したいと思います。
多くの人から顧みられないのです。
この人たちが困っていても、他の人々は知らん顔するのです。
今日の聖書の後半には、飢えていても顧みてもらえず、喉が渇いていても飲ませてもらえず、と人から顧みられない人たちが登場しています。
このような最も小さな人を顧み、親切を施すことは、イエス様に親切にすることだというのです。
→そこで考えさせられることがあります。
果たして私たちは、このような「最も小さな者」たちを顧みるだろうか、ということです。
最も小さな者を軽んじる心が私たちのうちにあるのではないか、ということです。
→イエス様は善きサマリア人のたとえを語られました。
ひとりの旅人が強盗に襲われ、半死半生状態で道端に倒れていました。
彼を顧みないで通り過ぎる人がいたのです。
祭司とレビ人が通り過ぎたとあります
彼らは共に神さまに仕えることを仕事としている人たちです。
彼らに「なぜ助けなかったのですか」と聞いたらどんな答えが返ってくるのでしょうか。
弁解の言葉が出てくると思います。
あるいは「私はあの旅人とは関係ないっし、とやかく言われる筋合いはありません」などと言うかも知れません
確かなことは、彼らは旅人を助けるための労苦と時間を惜しんだのです。
→もし傷ついて倒れていたのが、大祭司だったら、どうでしょうか。
大祭司は、祭司やレビ人の上司になります。
助けることによって何らかの見返りを期待できるからです。
つまり大祭司は、顧みる価値のある人なのです。
助けるための労苦と時間を使うだけの価値があるのです。
しかし傷ついた旅人は、顧みる価値がなかったのです。
→善きサマリア人のたとえを通して、
イエス様は隣人を愛することを教えられました。
助けを必要とする人がいて、その人がこちらを見ているなら、
それは助けてというサインですから、
助ける、それが隣人愛です。
今日の主イエスのお話には、助けを必要とする人がいます。
飢えている人、喉が渇いている人、病気の人、貧しくて着るものがない人など。
その人たちを顧みるかどうか、です。
そこで思います。
私たちは、この最も小さな者を顧みる者なのかどうか。
仮に顧みるとしても、心の中で、
「何で私がここまでしなければならないの」と不満を持つのが私たちではないかと。
私たちは最も小さな者を顧みることのできないものです。
少なくともいつも喜んで顧みることができない者と言ってよいのではないでしょうか。
普段の生活では、そのような思いを隠し、持っていないかのように私たちは振る舞います。
そんな私たちは神さまの目にどう映るのでしょうか。
神さまがどう思うかは分かりませんが、
私たちは神さまの顧みに値しない人間かもしれません。
皆さんはご自分をどう思われるでしょうか。
自分は神さまの顧みに値する人間だと考えられるでしょうか。
あのような人たちは顧みるに値しないと心ひそかに考えますが、
そのような思いをあからさまに外に出す粗野な人にはならず、
私たちはむしろ、よい人を演じているのではないでしょうか。
あのような人たちは、私が顧みるに値しない人たちだと考えるのは、
高慢です。
あの人は私の顧みに値する人、値しない人などと考えるのは高慢です。
私たちのうちには、高慢な心があります。
高慢は神さまの嫌われることころです。
つまり私たちは罪人なのです。
→でも神さまは、そんな私たちを顧みてくださるというのです。
本当でしょうか。
イエス様が十字架の上で罪の赦しのためのいけにえとなってくださいました。
「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」(ローマ5:8)。
神さまは、イエス様を信じる私たちの高慢の罪の赦しを与えてくださいます。
ここに神さまの愛があります。
ヨハネの手紙一の言葉を読みます。
「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです」(ヨハネ一3:1)。
神さまは私たちを顧み、私たちを神の子と呼んでくださるほどに愛してくださいます。
神さまは、イエス様を信じる私たちを神の子と呼んでくださるほどに、
私たちを愛してくださり、私たちを顧みてくださいます。
→私たちは「最も小さな者」を顧みることのできない、高慢という罪を持つ者ですが、
そのような私たちを神さまは顧みてくださいます。
イエス様ご自身が最も小さな者を顧みてくださる方です。
この神さまの愛、イエス様の愛によって、自分の内にある高慢を砕かれた人は、
イエス様と同じように、
最も小さな者とされる人を顧みる人にされます。
そして顧みる人になります。
隣人を愛する人にされ、隣人を愛する人になります。
イエス様を信じる人とは、
最も小さな者とされる人を顧みる人のことです。
正確に言えば、最も小さな者とされる人を顧みる人へと成長していきます。
そこには、悔い改めがあります。
高慢を悔い改め、謙遜を志します。
高慢を打ち砕かれる時、私たちは謙遜な人にされます。
神さまに顧みられたように、他者を顧みるようになります。
最初はできなくとも、信仰者は成長し、他者を顧みる人になっていきます。
人は行いによって救われるのかという疑問です。
今日の聖書には、最も小さな人に対してどのような態度を取ったかで、
人間の行く先が分かれます。
神の国に迎えられるか、永遠の火の中に投げ込まれるのか。
私たちは信仰によって救われるのであって、行いによって救われるのではないと教えられています。
使徒パウロはローマの信徒への手紙、ガラテヤの信徒への手紙で
はっきりと私たちは信仰によって救われると教えています。
→マタイ7:21にはこうあります。
「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。
この聖書の言葉も、天の父の御心を行うことが天国に入る条件に思えます。
あるいはマタイ16:27にはこうあります。
「人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである」。
今日の聖書箇所と同じことが言われているように思えます。
イエス様は行いによる救いを教えているのでしょうか。
→聖書の言葉の理解には前後関係を考慮することが大切です。
先ほど読んだマタイ7:21
「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである」。
この箇所の前後を読むと、行いによる救いが教えられているわけではないことが分かります。
イエス様は、弟子たちに色々なことを教えられました。
それは山上の説教と呼ばれます。
山上の説教の最後でイエス様はこう語ります。
「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている」。「わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている」。
イエス様は、弟子たちがイエス様から聞いた教えを行うことの大切さを教えています。
ですから「わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである」は、救いの条件を語っているのではなく、イエス様の教えを実践することの大切さを述べたものです。
→先ほど読んだマタイ16:27をもう一度読みます。
「人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである」。
この箇所の直前で、イエス様は弟子たちに、こう教えています。
「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る」。
ここでイエス様は弟子たちの生き方を問うています。
イエス様のために命を失うけれども、命を得る生き方をするのか、
それとも自分の命を救うことを求め、結果として命を失うのか、
そのことは、イエス様がおいでになった時に分かるという意味です。
イエス様は、行いによって救いが決まると教えているわけではなく、
むしろ信仰者として生きたことの結果が、明らかになると教えていると考えます。
今日の聖書には、
「栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く」とあります。
さらにすべての国の民がイエス様の前に集められます。
ここでイエス様は栄光に輝いているとあります。
これは何よりも、イエス様が神の子であり、救い主であること意味しています。
しかもイエス様が救い主であることは、すべての人に明らかになるというのです。
→その時、イエス様を信じなかった人々はどうなるのでしょうか。
マタイ 24:30にはこう書かれています。
「そのとき、人の子の徴が天に現れる。そして、そのとき、地上のすべての民族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る」。
イエス様を信じなかった人は悲しむというのです。
まことの救い主であるイエス様を信じなかったので、自分がこれからどうなるのかと恐れを覚え、悲しむというのです。
ヨハネ黙示録1章7節にはこうあります。
「見よ、その方が雲に乗って来られる。すべての人の目が彼を仰ぎ見る、/ことに、彼を突き刺した者どもは。地上の諸民族は皆、彼のために嘆き悲しむ」。
イエス様を信じなかったことを後悔するというのです。
→イエス様を信じた人々はどうでしょうか。
裁判というのは公正に行われることが大切です。
被告に利害関係のある人が裁判官になることはありません。
イエス様はどうでしょうか。
イエス様は、イエス様を信じる者の味方なのではないでしょうか。
イエス様は裁きの座にあって、
どんな表情で、どんな思いをもって、私たちに相対されるのでしょうか。
私たちのことを喜んでくださる表情がそこにあるのではないかと想像します。
私たちが信仰に歩んだことを共に喜んでくださる表情が見て取れるのではないでしょうか。
信仰者は裁きを恐れる必要はありません。
犯した罪のゆえに悲観する必要もありません。
イエス様は私たちを弁護してくださる方です。
「わたしの子たちよ、これらのことを書くのは、
あなたがたが罪を犯さないようになるためです。
たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます」。
イエス様は信仰者の味方です。
その方が裁きをなさるのです。
→イエス様は信仰者としての生き方を教えておられます。
聖書は神を信じる者の生き方を教えていると言えます。
私たちがその教えに生きているなら、最後の裁きは何も恐れる必要はありません。
むしろ、喜びの時となります。
イエス様は、「わたしの父に祝福された人たち」と喜びを共にしてくださいます。
目の前にいるイエス様から、「よくやった」とほめていただけるのです。
言うまでもありませんが、イエス様とお会いする喜びがあります。
そしてイエス様によくやったとほめられる喜び。
イエス様が救い主であることがすべての人に明らかになる喜び。
イエス様を信じて生きることができた光栄を覚える喜び。
裁きは、喜びの時です。
讃美歌二編の第一番に「心を高く上げよう」という讃美歌があります。
4節はこうです。
「終わりの日が来たなら、裁きの座を見上げて、
わが力の限り 心を高く上げよう」。
祈ります。