クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

死の怖れからの解放についてのメモ


「ところで、子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、 2:15 死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした」(新約聖書ヘブライ人への手紙2章14〜15節)。


STEP−1 聖書の教え

 イエス・キリストを信じる者は永遠の命を得ると聖書が約束している。主イエスを信じる自分は、永遠の命を与えられていると信じることができる。


STEP-2 何が本当か

 死んだら無になるとか、死んだらおしまいとか人は言う。自分でもそう思い、死を恐れるようになる。しかし聖書は、信じる者は永遠の命を得ると書いている。どちらが本当なのか、真理なのか。聖書の語ることを真理とすることにした。人間の経験・常識は「死んだらおしまい」「死んだら無になる」と語るけれど、それは本当ではない。聖書つまり神の言葉が語ることこそ、真理であるとする立場に立つこととした。


STEP-3 生きている間に実現しない神の約束を信じた人がいる!

 信仰は神の約束を信じることである。主イエスを信じる者は永遠の命を得る、これは神の約束である。神の国に迎えられるとの約束も与えられている。この約束は、自分が生きている間には実現しない神の約束である。
 自分が生きている間には実現しない神の約束を信じた人が聖書に登場する。創世記に登場するアブラハムで、彼は信仰の父とも呼ばれている。彼は、自分の子孫が大いなる民になるとの神の約束を与えられ、そこから彼の信仰に生きる人生が始まった。彼は自分が生きている間には実現しない神の約束を信じ、その約束の実現を頼みとして生きた人物である。そして私たちクリスチャンも、自分が生きている間には実現しない神の約束を信じて生きる者とされている。


STEP-4 主イエスの死

 なぜ死が恐ろしいのか。自分が死に、自分がこの世界から見捨てられると考えるとき、死の恐怖が来る。自分が孤立、独りぽっちになることが恐ろしいのである。そしてそれは、神から切り離されていることの恐ろしさにつながる。神に見捨てられる、それが人間の滅びであり、死の恐怖の真の原因である。地獄とは、神のいない世界である。
 主イエスは、十字架の上で神に見捨てられて亡くなられた。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになるのですか」と叫んで亡くなった。死の恐怖を主イエスは味わったのである。何が死の恐怖なのかを知って、それを味わわれたのである。主イエスは、私たちより先に死の恐怖を経験し味わい、亡くなられたのである。死という試練を主イエスは既に味わっておられるのである。主イエスは既に、私たちより先に、死の恐怖を味わっておられる! 


STEP-5 個人的約束

 聖書には、神の約束が沢山書かれている。アブラハムモーセヨシュアダビデ、ソロモンなどなど。旧約聖書に登場する人物には、神から直接約束を与えられた人々がいる。神から個人的に約束を与えられている人がいる。その約束は、その人だけに与えられた約束であり、神は真実な方で、その約束を実現されていることを聖書から知ることができる。
 永遠の命の約束、神の国に迎えてくださるとの神の約束は、私に対する神さまの個人的な約束でもある。神さまが私に与えてくださった約束なのである。うれしい。


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