私が、牧師人生の後半になって考えさせられたことは信仰者のアイデンティティーということです。信仰者は何者か、ということです。クリスチャンってどういう人なのとの問いに対する答え、それが信仰者のアイデンティティーです。大切なことは、聖書が語る信仰者のアイデンティティーです。イエス・キリストを信じる信仰者はどういう人なのかと聖書が語っていることを「知ることが大切なのです。そして信仰者が現実の自分を顧みると、そのアイデンティティーからかけ離れていることがしばしばあります。
牧会していたとき、そして今でもよく耳にする言葉は「私は罪深い者です」という言葉です。あるいはそういう意識から出てくる言葉です。イエス・キリストを信じる人は罪赦され、義とされているという福音があるはずなのに、自分は罪深い者であると考えているのです。私たちは罪深い者である、これは私たちの現実です。しかし、信仰者は罪赦された者、神さまから義と認められた者です。信仰者のアイデンティティーは、罪赦された者、義と認められた者です。もし私たちが自分は何者かと言われたら、私は罪赦され、義とされた者であると答えるべきなのです。聖書がそのように教えているからです。
でも人は現実の自分を見て、罪深い者というアイデンティティーに生きています。自分の本当にアイデンティティーに生きる人は美しい。僕はそう考えます。
写真は、今妻が栽培しているパセリの写真です。このパセリを見て僕は美しいと思ったのです。パセリの茎は三つに分かれます。分かれた茎もまた三つに分かれます。三つに分かれる、これはパセリのアイデンティティーなのです。もう一つ栽培しているイタリアンパセリもやはり茎は三つに分かれています。
↑パセリ
↑イタリアンパセリ
クリスチャンのアイデンティティー
- 神の子
- 新しく生まれた者、新しく造られた者
- 罪から清められた者
- 罪から解放された者
自分のアイデンティティーを信じ、このアイデンティティーに生きる、それが信仰者の歩みだと僕は考えています。僕は罪深い者ですが、それでも神の子として歩み、新しく生まれたものとして生きています。聖書のみ言葉によって生きる、ここに信仰者の新しさがあります。聖書のみ言葉によって生きることによって、私たちの心は変えられていき、他者も、私たちが変えられたことを認めるようになります。私たちを新しいアイデンティティーに生きるべく、生まれ変わらせてくださった神さまをたてえます。神さまに栄光がありますように。