holalaのブログ

隠退(引退)牧師holalaのブログです。

聖書 ルカ 4章16〜22
説教 主イエスが遣わされた目的
2018/04/22
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無牧のG教会での説教です。
アドリブで語った部分、
あなたは説教を聞いて笑えますか((^_^;)
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→イエス様は故郷のナザレの会堂で説教をされることからその活動を開始されました。
エス様は会堂の礼拝の中で、イザヤ書61章を朗読され、
この聖書の言葉は「今日、あなたがたが耳にしたときに実現した」と語られました。
預言者イザヤの言葉が実現したと語られたのです。
預言者イザヤを通して語られた神さまの約束が
実現したというのです。
その約束では、捕らわれている人に解放が与えられ、
目の見えない人が見えるように回復が与えられ、
圧迫されている人が自由になるというのです。
そのために、
私は神さまから遣わされたとイエス様はおっしゃったのです。
預言者イザヤは、彼が生きている時代の人に向かって、
救い主の到来を告げたわけですが、
エス様は、私がその救い主として遣わされた、と宣言されたのです。


→私たちは救いというと、罪の赦しを考えるかもしれません。
エス様の十字架の死、それは私たちに罪の赦しを与えるものです。そして罪が赦され、天国に行ける、それが救いだと思っている方もおられるかもしれません。
確かに罪の赦しは救いです。
しかし聖書が告げる救いは、もっと豊かなのです。

エス様が旧約聖書イザヤ書に言及し、
そこに書かれている救いを与えるために私は来たと語られる時、
そもそも「救い」とは何なのか、
旧約聖書に聞く必要があると思います。
そうしないと私たちは聖書が告げる救いを誤解することになるかもしれません。
旧約聖書においては、救いはどのようなものとして描かれているのでしょうか。

旧約聖書が語る最初の救いは、出エジプト記に書かれています。
そこでの救いは、奴隷状態からの解放です。
今から三千年以上も昔のことです。
イスラエルの民は、エジプトの国で奴隷として辛く苦しい生活をしていたことが書かれています。
その苦しさからの救いを求めて彼らは神さまに叫びました。
すると神さまは、モーセという人物を選び出し、
イスラエルの民の指導者に立て、イスラエルを救う御業を始められます。
神さまは大いなるわざを行い、
イスラエルの民をエジプト王の奴隷状態から解放させます。
ここでは、救いは奴隷状態からの解放を意味します。


イスラエルの民は神さまの助けによって奴隷状態から解放され、自由に生きることのできる地を目指して荒野を旅します。
その途中で、
シナイ山という山の麓で彼らは神さまと契約を結びます。
神さまは、「わたしはあなたがたの神となる」と約束されます。
そしてイスラエルの民に、神さまの戒めを与えます。
戒めの代表は、十戒です。
そしてイスラエルの民も、「私たちはあなたの民となります」と約束します。
神さまの戒めを守り、神の民となりますと約束します。
ここに神の民イスラエルが誕生します。
神の民イスラエルは、神との関わりをもって生きる民となりました。


→やがて彼らは、神さまが示された地に着き、そこで暮らし始めます。
神さまが示された地で自由な人間としてイスラエルの民は生きることを始めます。
すると彼らは何をしたのでしょうか。
旧約聖書士師記に書かれています。


イスラエルの民は、周辺にいる民族の娘と自分の息子を結婚させ、周辺にいる民族の息子に自分の娘を嫁がせました。
その結果、イスラエルの民は周辺にいる民族の神々を拝むようになりました。
あの十戒の第一の戒めは、あなたがたには、わたしをおいて他に神があってはならないでした。
イスラエルの民は、この戒めを破りました。
神さまの目に悪とされることを行ったのです。
そして神さまはお怒りになります。
すると外国の民がイスラエルを攻めてきて、イスラエルを支配するのです。


→その支配に苦しんだイスラエルの民は神に助けを求めます。
すると神は一人の救助者を起こし、イスラエルを外国の支配から救われます。
その救助者がイスラエルを治め、神の民として生きるように指導します。そして平和が戻ります。
しかし平和が続くとまた、イスラエルの民は神の目に悪とされることを行い、神はお怒りになり、イスラエルは外国の支配に苦しむということが繰り返されます。
彼らが悔い改め神さまに立ち帰ると神さまは彼らを助け、平和を与えられます。
ここでの救いは、外国人の支配からの解放、自由です。


→やがて外国の侵略に苦しむイスラエルの民は、王を立てることにし、軍隊を持つことにします。
軍隊があれば、外国人が侵略しようとしても防ぐことができると考えたのです。
このことは神さまには喜ばれませんでした。
イスラエルの民に平和を与えられるのは神さまなのに、軍事力によって平和を得ようとしたからです。
しかし神さまは、イスラエルの民が王を立てることを許されました。

→二代目の王ダビデは、イスラエルの国を建てあげました。
彼は戦いにも秀でた王であり、周囲の国々を支配したのです。
ダビデが亡くなり、その子ソロモンが死ぬと、イスラエルの国は分裂します。
すると何が起きたのでしょうか。
旧約聖書の列王記です。


→北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂します。
南のユダ王国の都はエルサレムでそこには神殿がありました。
しかし北のイスラエル王国には神殿はないので、金の子牛を造り、これを神として崇めたのです。
十戒の「あなたはいかなる像も造ってはならない」との神の戒めを破りました。
北のイスラエル王国の王は、金の子牛を神として拝み続けたので、神はお怒りになります。
やがてイスラエル王国アッシリア帝国によって滅ぼされます。
南のユダ王国もバビロン帝国によって滅ぼされます。
この時、イスラエルの人々は捕虜となってバビロンに連れて行かれ、異国の地で生きることとなります。
預言者は、神さまの救いを語ります。
バビロンでの捕虜としての生活から解放され、故国に戻って生きることができるとの救いです。


→その後、イスラエルペルシャギリシャ、シリア、エジプト、ローマの支配下に置かれ、イエス様の時代、救い主がおいでになって、ローマの支配からイスラエルを独立させることを人々は期待しました。


→こうしたイスラエルの歴史を見ると神さまに対する罪が、彼らに困難な状況をもたらしています。
つまり外国の支配という苦しみです。
でも彼らが悔い改め、神さまに立ち帰ると、神さまは彼らを許し、
外国の支配からの救いをお与えになりました。
こういうことの繰り返しがイスラエルの歴史でした。
エス様が登場し、イエス様の力ある御業を見たとき、人々は、イエス様がローマの支配から自分たちを自由にしてくれると期待しました。
しかしイエス様が与える救いは、ローマの支配からの解放ではありませんでした。
エス様が与える救い、それは根本的な救い、罪の支配と死の支配からの救いでした。繰り返します。イエス様が与える救い、それは・・・・

→今日の聖書のイザヤ書の言葉によれば、イエス様が与える救いは、解放・回復・自由です。
つまり救いとは、解放されること、回復すること、
自由にされることなのです。
福音書を読むと、イエス様は悪霊に取り憑かれた人から悪霊を追い出し、悪霊からの解放を与えられました。
また病人をいやし、病気からの回復、病気の苦しみからの自由を与えられました。
そしてイエス様は貧しい人々に福音を宣べ伝えられました。
貧しい人というのは、経済的に貧しいというよりは、色々な苦しみにあえいでいる人ということができます。
エス様は、語ります。
貧しい人は幸いである。
今飢えている人は幸いである。
今泣いている人は幸いである。
では幸いとは思えない人がなぜ、幸いなのでしょうか。


→イエス様が宣べ伝えた福音は、神の国の福音です。
神の国とは神さまの御支配を意味します。
神さまの御支配が、あなたがたの上にある、これが福音ですとイエス様は宣べ伝えました。
つまりイエス様は、神さまの御支配の中を生きてみなさい。
神さまのご支配の中を生きることこそ、幸いであると人々に語られたのです。
神の御支配の中を歩みなさいとイエス様は人々を招かれたのです。
神さまのご支配の中こそ、人間の真の居場所なのです。
神さまの御支配とは、神があなたと共におられ、あなたを守り導いてくださるということです。

→イエス様が与える救いが、解放・回復・自由であることを告げる聖書の箇所を紹介します。
クリスチャンを迫害していたパウロは、やがて復活されたイエス様に出会い、イエス様を宣べ伝える人となります。
主イエスは彼にこういう使命を与えられました。
使徒言行録26章に書かれています。


→「わたしは、あなたをこの民と異邦人の中から救い出し、彼らのもとに遣わす。
それは、彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち帰らせ、こうして彼らがわたしへの信仰によって、罪の赦しを得・・・」云々とあります。


→イエス様はパウロに言いました。
「彼らの目を開いて」。これは心の目が開かれることを意味します。
さらに「闇から光に、サタンの支配から神に立ち帰らせ」。
これは闇やサタンの支配からの解放であり、光の中を、そして神と共に歩む自由の回復です。
そしてイエス様への信仰によって罪の赦しをいただくことができます。


→罪の赦しというのは、
あなたの行った悪しき行いを忘れるという神さまの宣言ですが、
それは何のためかというと、
私たちが神さまのご支配の中に生きるためです。
罪の赦しというのは、
これでもう神さまのバチが当たらない、神さまのお怒りにあわない、うれしい、ということにとどまりません。
神さまが私たちの罪を赦すとは、
神さまが「私たちが神さまのご支配の中を生きることを許す」ということです。
エス様は、私たちに自分の力で生きるのではなく、
神さまのご支配の中に生きるようにと私たちを招かれるのです。
悔い改めて罪の赦しを受けるとは、
神さまのご支配の中を歩むことが許されるということです。


→あるいはコロサイの信徒への手紙1章にはこう書かれています。
「御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、
その愛する御子の支配下に移してくださいました。
わたしたちは、この御子によって、贖い、
すなわち罪の赦しを得ているのです」。
私たちは闇の力から解放されて光の中に救い出されたとあり、
私たちは御子イエスのご支配の中に置かれている、
と書かれています。
救いとは、闇の力、つまり罪の支配下から救い出され、
光の中、つまり御子イエスの支配の中に生きることだと教えられています。

→イエス様は、私たちを罪の支配、死の支配から救われる方です。
そして私たちを神さまのご支配の中に生きるように招かれるのです。
私たちは自分が罪の支配、
死の支配の中にいることに気づいていないかもしれません。
しかし私たちの心は、案外不自由なのです。
色々なものに支配されているのです。
たとえば、人を赦せない思い、妬む思い、憎む思い、劣等感、
あるいはさまざまな不安や恐れに捕らわれて、
平安を持てないことがあります。
私たちの心は、これらの思いから自由になれない、
つまり、これらの思いに支配されているということです。
あるいはやめられない悪い習慣があるかもしれません。
私はかつてタバコの奴隷でした。


→死の支配については、
ヘブライ人への手紙にこう書かれています。
「ところで、子らは血と肉を備えているので、
エスもまた同様に、これらのものを備えられました。
それは、死をつかさどる者、
つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、
死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした」。


→イエス様は死の恐怖の奴隷状態にある人たちを解放なさるために、
人となられたと書いてあります。
私自身、信仰を求めるきっかけは、
死の恐怖の奴隷状態からの救いでした。
自分が死ぬということを考えると、
心は恐れに包まれてどうしようもなくなりました。
救い主イエス様により死の恐怖の奴隷から解放されたことを
私は心から喜んでいます。


→罪の支配は、様々なかたちをとります。
罪の支配からの解放を、一つ実例をあげて紹介します。
それは思い煩いからの解放、自由です。
私たちは何事かに思い悩むとき、
頭の中は、そのことをめぐって堂々めぐりし、
そこから抜け出ることができません。
ただただどうしたら良いか、と悩み続けます。

抜け出ることが出来ないということは、
心が束縛を受けているということ、
思い煩いに支配されているということです。
何が問題なのでしょうか。
自分の力で生きていこうとする傲慢がそこにあります。
何でも自分の思い通りにしたいという思い上がりがあります。
何でも自分の思い通りにできるのは神さまだけです。
神さまのようになり、
自分の思い通りにしたいという高慢の罪がここにあります。
そして神ならぬ人間は、自分の思い通りにできず、
思い悩み、そこから抜け出ることができません。
解決は、これです。
高慢を悔い改め、神さまに自分の歩みをゆだねるのです。
でも漠然とゆだねるのではありません。
聖書には、処方箋が書かれています。
つまり思い悩む代わりに、その処方箋に従えば良いのです。
これが神にゆだねるということです。


→その処方箋を紹介します。
フィリピの信徒への手紙4章。
「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。
何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、
求めているものを神に打ち明けなさい。
そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、
あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」。


→思い煩うとき、思い煩う代わりにすることがあります。つまり、
「何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、
求めているものを神に打ち明けなさい」。
ここには、悩みが解決するとは約束されていません。
しかし神の平和があなたを守ると約束されています。
悩みがあっても問題があっても、平安に生きることができるとの約束があります。


→私たちは様々な思いに縛られています。
そこには私たちの罪が潜んでいます。
その罪を悔い改め、神さまのご支配の中に生きようとするとき、
私たちは、私たちを縛る思いから自由にされます。
解放されます。
神さまは、処方箋を与えてくださいます。
それは聖書に書かれています。
エス様が与えてくださる罪の赦し、解放、回復、自由、これが救いです。
私たちはキリスト者の自由を味わうように救われたのです。