クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

朝日新聞に面白い文章が載っていました。ホスピスで働いていた方の文章です。

身を粉にして働いてきた人は、理屈で生きてきた人に比べ、いったん認めると素直になることが多いように思います。Aさんもそうです。体から発せられる声を聴くというか、頭で理解して理性で判断するのではなく、体で分かって「こうしかない」と納得する。潔さを感じます。

Aさんの姿を見ていると、あがかないというか、「上手に自分を明け渡したな」と思うのです。これは生を諦めるのとは違います。最後まで生き切るけど、そのときどきの状態をあるがままに受け入れ、任せる。

人はいずれ死ぬ。この絶対的事実を、死に直面してどう受け入れるか。理屈で考えるか体で納得するかで、最後の姿は大きく異なります。

 なかなか興味深い文章で、ホスピスで多くの方を看取ってきた方の体験から生まれた言葉だと思いました。「理屈で生きる人」というのも面白い表現です。そのように見える患者が少なからずいたことを思わせます。


 僕は若いときから、自分の死をどう受けとめるか考えてきました。洗礼を受けてからは聖書を手がかりに考えてきました。ある意味理屈で生きていますが、信仰に生きていると言い換えたいと思います。僕はどんな最後を生きるのでしょうか。死を考えることは、逆にいかに生きるかを考えることでもあります。いかに生きるか。導かれて信仰によって生きるようになったことについては。神さまに感謝をいくらささげても献げ尽くすことはできません。