クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

朝、突然の地震に驚きました。ちょうど血圧を測ろうとしていたときでした。心臓の鼓動は高まったままなので血圧は後でと思いましたが、測ってみたら、平常値でした。デボーションをしていて、イエス様の「あなたがたは私を何者というか」との問いを突きつけられた気がして、自分にとってイエスは何者なのかを言葉に表してみたいと思います。


私にとって、イエスはいかなる方か(1)

◎キリストは私にとって生き方の模範となる方。

 大学生の時、友人から紹介されたのがキルケゴールという哲学者。後に教会に行くようになり、信じたくても目に見えない神がどうして信じられるのか、分からなかったことがある。そんな時、キルケゴールの『苦難の福音』という著述に出会った。彼は哲学者として知られているが、牧師でもある。この本を通して、キリストは自分のために生きなかった。むしろ自分を与える生き方、自分を犠牲にする生き方をして十字架の上で死なれたことを知り、この生き方に妙に心が惹かれた。


 それまでの僕は、何をしたら、何を獲得したら、充足した生き方、空しくない人生を送ることができるかを考えていた。自分が何かをして、何かを獲得することによって満ち足りる人生にするという生き方は「得る」ことに目的がある人生となる。多くの人は「得る」人生を生きている。その生き方が空しいのではないかと考えていた僕にとって、自分を与えるというイエス様の生き方は新鮮に思えた。マイナスとマイナスをかけるとプラスになる。そこで「空しい人生」というマイナスと「与える」というマイナスをかけるとプラスになると考えた。ここに心が満ち足りる道があるのではないかと考えた。「キリストもご自分の満足はお求めにはなりませんでした」(ローマ15:3)は印象に残る言葉となった。

「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」(ローマ14:8)

これは、自然に僕の心の中に入り、とどまっている。


◎キリストは私にとって生き方の模範となる方。


↑国蝶オオムラサキ
昨日礼拝後、午後の集会まで時間があるので教会の近所を散歩していたとき、樹液を吸っているオオムラサキを見つけました。びっくりしました。こんな出会いがあるのか、と。長い人生の中、この蝶を自然の中で見るのは、二回目。