クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

聖書 創世記 3:1〜13
説教 罪の中に死んだ者
2018/6/24

説教を聞くにはここをクリック
(新しいウインドウで聞くことになります。スマホ利用の方は dropbox というアプリのインストールが必要です)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
今日は、罪の話しをいたします。

→今日の創世記の3章の話しは罪の起源を語るものとして読まれてきました。
この聖書に耳を傾けたいと思います。
神さまは、人間をお造りになりました。
私たち一人一人は、神さまのご意志によって誕生しました。
その人間をエデンの園に住まわせました。
エデンの園の中央には命の木と善悪の知識の木がありました。
神さまは、お造りになった人間、アダムに言います。
「園のすべての木から取って食べなさい。
ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。
食べると必ず死んでしまう」。


→今日の聖書には蛇が登場します。
神が造られた野の生き物のうちで最も賢かったとあります。
その蛇が女、つまりアダムの妻に語りかけます。
「園のどの木からも食べてはいけない、
などと神は言われたのか」。
神さまの言葉を正確に引用していません。
神さまは、
「どの木からも食べてよい」と言われました。
善意に溢れる言葉です。
それなのに「園のどの木からも食べてはいけない、
などと神は言われたのか」。
神さまが意地悪であるような印象を与えます。


→女は蛇に答えます。
「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです」。
しかし続く彼女の言葉は、
彼女が神さまの言葉をきちんと聞いていないことを示しています。
彼女は言います。
「でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない。触れてもいけない。
死んではいけないから、と神様はおっしゃいました」。
神さまが食べてはいけないと禁じたのは、
園の中央にある善悪の知識の木の実だけです。
園の中央にある命の木の実は食べるのを禁じられてはいません。
さらに、「触れてもいけない」と女は語りましたが、
「触ってはいけない」とは、神さまは語っていません。
神さまの言葉をうろ覚えというか、きちんと聞いていないと、
隙が生じます。そこに蛇がつけこみます。


→蛇は言います。「決して死ぬことはない。
それを食べると、目が開け、
神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ」。
ここには嘘が混じっています。
「決して死ぬことはない」。これは嘘です。
神さまは食べれば「必ず死ぬ」とおっしゃったのです。
「神のように善悪を知るものとなる」、これは本当です。
3章22節で
「人は我々の一人のように、
善悪を知る者となった」と神は語っています。
本当のことと嘘を一緒に語られたとき、
惑わされないためにはどうしたらいいのでしょうか。
「食べたら必ず死ぬのか」、それとも「決して死なないのか」、
そこで女はどうするか、です。

→「女が見ると」。「見る」、これが失敗です。
善悪の知識の木は、「おいしそうで目を引きつけ、
賢くなるよ」とそそのかしていたとあります。
神さまが、
善悪の知識から取って食べてはいけないと言われた時、
それは善悪の知識の木に近づくなとの意味を持つと思います。
近づかなければ、取って食べることは決してありません。
女の失敗は、善悪の知識の木を「見た」ことにあります。


→人は自分を誘惑するものに近づいてはいけないのです。
近づくとその誘惑に負けてしまうのです。
人が誘惑に負けるのは弱いからではありません。
誘惑に近づくから負けるのです。
誘惑に勝つこつ、それは近づかないことです。
誘惑が目の前に現れたら、すぐに誘惑から離れることです。
女は「見た」ので、誘惑に負け、
禁じられた木の実を食べてしまいました。
そして一緒にいた男、アダムにも渡し、
二人とも禁じられた実を食べてしまいました。
彼らは神の戒めを破り、罪を犯しました。


→罪とは何でしょうか。
普通、罪というと、悪いことを行うこと、神さまの命令に背くことと考えられます。
それは罪の理解として不十分だと私は思います。
アダムと女は取って食べてはいけないとの命令に背きました。
命令に背くということは、命令した人に背くことです。
彼らは命令をした神さまをないがしろにしたのです。
罪とは神さまを軽んじることです。
神を軽んじ、神の言葉を軽んじ、神の教えに背きます。


→罪とは、神をないがしろにすること、神に逆らうこと、
神を信じないことです。
神を信じないことが罪だというと、
一般の人は、それはおかしいと言うかもしれません。
信じる、信じないは人の自由だというわけです。
しかし信仰に立つなら、神を信用しない、
神の言葉をないがしろにする、
それこそが罪の本質です。
そこからさまざまな悪しき行為が生まれてきます。

→アダムと女は、罪を犯しました。
罪を犯した彼らに何が起きたのでしょうか。
「二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、
二人はいちじくの葉をつづり合わせ、
腰を覆うものとした」とあります。
自分が裸であることに気づき、裸を恥じたのです。


→裸を恥じた、
それは文字通りの裸を恥じたということではないと思います。
幼子は自分の裸を恥じません。
しかし成長とともに裸を恥じるようになります。
自我意識が目覚めるからです。
そのような恥ずかしさがここで意味されているとは思えません。
裸を恥じた、
それは彼らの中に起きたことと関係していると思います。
禁じられた木の実を食べたとき、
彼らの中に罪意識が生じたのです。
つまり私は神さまの命令に背いた、との罪意識が生じたのです。
罪意識を持つ自分を恥じたのではないでしょうか。
そして、その罪意識を隠したい、消したいと思ったのです。


→人は罪意識を軽くするために、手段を講じることができます。
たとえば自分だけでなく、
他の人も同じことをしていると自らに言い聞かせ、
深刻に考えないようにすることができます。
皆もしているとなれば罪意識は軽くなります。
この罪は軽い、小さい罪、気にしなくていいと考えることもあります。
あるいは自分を責めます。
あんなことをしなければよかったのに、
なぜしたのかと自分を責めます。
罪意識を感じる代わりに自分を責めるのです。
自分を責めることで、罪意識から逃れるのです。
自分を責めることで、
自分が正しいことをしているようにさえ思えます。
このようにして人は自分の罪意識を隠そうとします。
罪を犯すと罪意識が生じます。

→8節。その日、風の吹くころ、
主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。
神さまが彼らに近づいてきたのです。
彼らが罪を犯したので、神さまは近づいてきたのです。
神さまは彼らをフォローをするために近づかれました。
彼らに悔い改めを期待しておられると思います。


→しかし、神さまが近づいてきたとき、
アダムと女は主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れました。
彼らは身を隠したのです。
その理由を10節でアダムは語っています。
彼は、「あなたの足音が園の中に聞こえたので、
恐ろしくなり」と語っています。
神を恐れたのです。神の裁きを恐れました。
犯した罪に対する罰を恐れたのです。
罪を犯すと罪意識が生じ、神を恐れ、裁きを恐れる思いが生じます。
それゆえ、神から身を隠し、逃げようとします。


→すると神さまは「どこにいるのか」と呼びかけた。
これは、いなくなった者を捜す言葉。愛の言葉です。
彼らを探し、彼らが悔い改めるなら赦そうとする神の言葉です。
私たちがふらふらと迷い、神に背を向けてしまうとき、
「どこにいるのか」と神さまは呼びかけ、
私たちを神さまの前に連れ戻そうとする言葉です。
神と共に歩むよう、私たちを招く神さまの言葉です。


→「どこにいるのか」との神さまの言葉にアダムは答えます。
「恐ろしくなり、
隠れています。わたしは裸ですから」と答えました。
犯した罪に対して神が何をなさるか、恐ろしくなりました。
神の裁きを思い、
自分の滅びさえ感じたのではないかと思います。
ここでアダムは、「わたしは裸ですから」と答えています。
裸であることを知り、
いちじくの葉を綴り合わせて腰を覆いました。
つまり罪意識が生じたのです。


→すると神さまは「お前が裸であることを誰が告げたのか。
取って食べるなと命じた木から食べたのか」と言います。
アダムと女が犯した罪をズバッと指摘します。
するとアダムは、自分が食べたのは、女が木から取って与えたので、食べましたと、責任を転嫁します。
正直に食べたと罪を告白するのではなく、女のせいにしたのです。
そして女も「蛇がだましたので、
食べてしまいました」と蛇のせいにしました。
女もまた責任を転嫁しました。
罪を犯すと何が生じるのでしょうか。
人は罪を重ね、罪の中に沈んでいくのです。


→罪を犯すと罪意識が生じ、
そして神さまを避けるようになります。神を怖がるようになります。
さらに罪の中に沈んでいきます。
神さまが近づいてくださったとき、
正直に罪を告白し、赦しを求めればよかったのです。
告白した後のことは、神さまにゆだねるほかありません。
正直に生きるのが一番です。
聖書がアダムと女の物語を語るとき、
私たちも例外なく、神に背き、
罪を犯す者であることを聖書は告げています。

→罪と関連して、
もう一つ考えなければならないことがあります。
蛇は善悪の知識の木の実を食べても「決して死なない」と女に語りました。
そしてアダムと女は、生きています。
すると取って食べれば必ず死ぬという神の言葉は偽りであり、
蛇の言葉が真実だったということなのでしょうか。


→もし「死ぬ」ことが肉体の死を意味していたら、蛇が正しく、
神は偽りを語ったことになります。
神の言葉が真実であるなら、「必ず死ぬ」の「死」、神が語る死は、肉体の死を意味してはいません。
とすれば、その「死」は何を意味しているのでしょうか。
そして「必ず死ぬ」の神の言葉が真実なら、
アダムと女は、死んでいることになります。
取って食べたのですから。
それなら、その死はどこに現れているのでしょうか。


→神が園の中を歩く音を聞いたとき、
彼らは木の間に隠れました。
神を避けました。
ここに、神さまの語る死が、現れていると思います。
つまり神さまに背を向けている、罪を犯している状態、
それが神さまの語る死です。
罪を犯すとき、私たちは死ぬのです。
もちろん、それは肉体の死ではありません。


→神さまは人間を造られました。
神さまがその人間を見たとき、
その人間は神さまの目によきものでした。
人間が神の命令を破ったとき、彼らは罪を犯し、
堕落したのです。
神に背を向けるようになったのです。
神さまの目によきものではなくなりました。
生物としては生きているかもしれませんが、
神さまに背を向けています。
それは神さまの目には、生きているとは言えないのです。
神さまの目には死んだに等しいもの、
いや、死んだ者になってしまったのです。
アダムと女は、神の命令に背き、
さらに自分を守るために責任転嫁をします。
罪に罪を重ねていきます。
このような人間が、神の目によい存在であるはずがありません。
このような人間の姿を語っている聖書の言葉があります。
エフェソの手紙2章の1節の言葉を読みます。
「さて、あなたがたは、
以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです」(エフェソ2:1)。
人は罪によって死んだ者となってしまうのです。


→イエス様がお語りになった放蕩息子のたとえがあります。
放蕩の限りを尽くし、行き詰まり、
そして父のもとに息子が帰ってきました。
父は帰ってきた息子のために宴会を開いて息子の帰還を祝います。
しかし兄息子は、不服です。
真面目に働いている自分に宴会など開いてくれないのに、
放蕩の限りを尽くして帰ってきた弟のために宴会を開くのです。
兄には理解できないのです。不公平に我慢できません。
その時、父親は言うのです。
「お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。
いなくなっていたのに見つかったのだ。
祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか」。


→信仰を持つ以前の私たちは罪の中にあって死んでいました。
でも、そういわれてもピンとこないと思われるかもしれません。
そこで一つ考えてみてください。
今信仰者として生きている皆さんは、
信仰を持つ以前の状態に戻ってもいいと思われるでしょうか。
戻れますか。
どうでしょうか。
私は絶対に戻りたいとは思いません。
なぜでしょうか。以前の状態は、
今の私から見れば、死んだ状態だからです。
だから戻りたくないのです。
そして私が信仰を持ったことは、神さまから見れば、
死んでいたのに生き返ったことなのです。
信仰に生きる皆さんも、
以前の状態に戻りたくないとお考えなら、
皆さんも、死んでいたのに生き返ったのです。


→私たちはイエス・キリストを信じ、
罪から救われました。
神さまの目に喜ばれる者とされたのです。