クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

 高村薫という作家がいます。先日、オーム真理教の元死刑囚の死刑執行に関連しての彼女が寄稿した文章が朝日新聞に掲載されていました。7月10日朝刊。

 日本人はいまや宗教と正対する意志も言葉ももっていない。この精神世界への無関心は、理性や理念の無関心と表裏一体であり、代わりに戦後の日本人は物質的な消費の欲望で人生を埋め尽くした。

 日本社会、日本人を分析しています。このような状況だから、伝道は困難であると言うことができます。しかし、この作家の信仰理解には疑問を感じました。

「信心と帰依は信仰の本態である。また信仰は本来、自身を守るための殉教や殺戮もあり得る絶対不可侵の世界であり、もとより社会制度や通念とは相容れないところで立っている」。

 信仰は、殺戮もあり得る絶対不可侵の世界、というのはどうでしょうか。さまざまな宗教がありますが、自らを「殺戮を容認する絶対不可侵の世界」と考えている宗教はあまりないと思います。オーム真理教はそうだったかもしれませんが。

 「それでも、いつの世も人間は生きづらさをやわらげる方便としての信仰を求めることをやめはしない」。

 嫌な感じが残る文章でした。宗教を方便と言い、信仰を求める人を低く見ているような気がしました。


 記事は、

「オーム真理教が私たちに教えているのは、、非社会的・非理性的存在としての人間と宗教を、社会に正しく配置するとの不断の努力の必要である」

と結びます。宗教を非社会的・非理性的存在と見なすのも疑問を感じます。「社会的に配置する」ってどんな意味なのでしょうか。関心をもって読んだ記事でしたが、失望感が残りました。