クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

 牧師を隠退して、まもなく一年半になります。幸いなことに説教をする機会が与えられて感謝しています。いくつかの教会で奉仕をして気づいたことがあります。礼拝の司式をする人の祈りです。祈りの最初に神さまを賛美しますが、それ以降の祈りで「神をたたえます」とか「神を賛美します」とか、神をたたえる言葉は出てこないのです。神さまに対する感謝の言葉はいくらでも出てくるのですが、神をたたえる言葉は出てきません。祈りの最初のたとえば「主の御名を賛美します」という祈りは、結局、決まり事になっている祈りです。祈りの最初の言葉は、これ、という形で祈られています。


 旧約聖書詩編を読めば、神さまをたたえる言葉の多いことに気づきます。なぜ詩編では多いのに私たちの祈りではほとんどないのか。私にとっては大きな疑問でした。これは他人事ではなく、自分自身の問題です。私の祈りも同様だからです。「あなたをたたえる心を与えてください」は、今の私の祈りの課題になっています。


 先日、遠藤周作の『沈黙』を読みました。これまで何回か読む機会がありましたが、読み終えたのは今回が初めてでした。その中で転んだ宣教師のフェレイラの語る言葉が胸に突き刺さりました。彼は捕らえられたロドリゴという宣教師に語るのです。

この国の者たちがあの頃信じたものは我々の神ではない。彼等の神々だった。それを私たちは長い長い間知らず、日本人が基督教徒になったと思い込んでいた。

基督教の神は日本人の心情の中で、いつか神としての実体を失っていった

 何とも恐ろしい言葉です。宣教師が伝えた神を日本人は「屈折させ、変化させ、別のものを作りはじめたのだ」というのです。心の中で神に感謝する言葉は多く語っても、神をたたえることが少ない祈りをする私たちが信じる神は、果たして聖書の神なのか、と自分たちのことを言われているような気がしました。フェレイラと同じ思いが、私の心にないわけではないのです。


↑稲には、花がついています。