クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

伝道を考える

 先日、『信徒の友』(信仰の月刊誌10月号)を見ていたら、ひとつのニュースがありました。北海道の春採(はるとり)教会と釧路教会が合併したとのニュースです。釧路教会として存続するとのことです。私が神学校を卒業して最初に赴任したのが三重県の鳥羽教会です。前任の牧師は春採教会の招聘を受けて移動されました。「故郷伝道をしたい」とのことでした。それで春採(はるとり)教会のことが記憶に残りました。


 信徒の友を見ていると、時折、教会合併の知らせが掲載されています。教会を支える信徒の数が少なくなり、教会の活動が維持できなくなって合同するケースが増えています。教会は高齢化しており、今後の先行きが心配になります。


 伝道について考えていることを書いてみます。


 伝道をするには、四つのことが必要となります。伝道する人、伝道される人、伝道が行われる場、伝えるべきメッセージです。効果的な伝道は、信仰者の集い(数名から多くて10名)に未信者を招き、聖書を中心にした語り合いがなされ、信仰に生きることがどういうことかを伝えることができることです。信仰に生きている信仰者の姿を見せることです。いきなり未信者の人を礼拝に導くのは敷居が高いですが、少人数の集いなら誘いやすいです。未信者の人が信仰に関心を持つようになれば、礼拝にも導かれます。


 大切なことは、少人数の集いで、信仰に生きることについての分かち合いがなされることです。信仰に生きる本音が語られることです。同じ状況に生きている信仰者が聖書と仲間によって支えられて生きている姿を未信者の人が見れば、関心を持つに違いありません。信仰を持つ人も持たない人も、みな同じような問題や課題をかかえて生きています。人は自分は問題なく生きているような顔を他者に見せますが、実際には悩みを抱えているものです。ひとりで苦しんでいることがままあります。同じ悩みをもつ信仰者が信仰を支えとして、どのように生きているのかを伝える、それが証しとなります。立派な信仰者の姿を見せる必要はありません。ありのままでいいのです。自分の失敗を話せるといいですね。恥じる必要はありません。その正直さは神さまに祝福されます。信仰者の一生懸命生きている姿が伝われば、伝道できたことになります。伝道は伝えることであって、相手を信者にすることではありません。人の心を変えるのは神の働きです。伝えつつ祈ります。これが伝道です。


 そこで大切なことは、聖書を読み、信仰の歩みをし、自分の信仰の歩みの実際を話すことができる信仰者の存在です。このような信仰者を育成すれば、伝道は進展すると私は信じています。教会では聖書を学ぶ場が大抵ありますから、このような信仰者を育成すればよいと思います。牧師が聖書の解説をし、質疑がなされるだけの集会では、育成はむずかしいと思います。


 伝道できる信徒の育成が急務です。


 教会では一度、信徒に対して、伝道したい相手に誰がいるのか、アンケートをとってみるといいと思います。