『クラシック千夜一曲』(宮城谷昌光、集英社新書)を読んでいたら、次のような文章に出会いました。
「高校生になってあたりをみまわしたとき、はじめて自分の才能のみすぼらしさに気がつきました。級友たちがみな自分より優れてみえたのです。自分はひとに秀でたところがあるわけではない、むしろとても及ばないとおもいなやむ毎日でした」。p180。
この文章を読んですぐに石川啄木の歌を思い出しました。聖書の表紙の裏にこの啄木の歌を書いておいたこともあります。
「友がみな 我よりえらく見ゆる日よ
花を買い来て妻としたしむ」(「一握の砂」より)。
作家の宮城谷さんは早熟な気がします。それはそれとして、私も同じ体験をしました。大学時代のことです。1960年代後半、大学紛争が起きて毎日のようにクラス討論が開かれました。級友たちの議論を聞いていて、自分には何の意見もないことに気がつき愕然としました。そして級友たちがみな自分より優れていると思わされました。ずっと後になってある時、石川啄木の歌に出会い、慰めを受けました。
本当の慰めは神さまに出会ってからでした。教会で信仰の学びをするために、『人生を導く五つの目的』(リック・ウォレン著)という本を数名で読みました。その中に神は一人一人の人間を個性ある者として造られたと書かれていて、自分を心から受け入れることができました。
マタイ福音書にタラントのたとえがあり、人はそれぞれの賜物が与えられていると書かれています。賜物の大きさも人によって違います。つい賜物の大きい人をうらやみますが、賜物が大きい人は、それだけ大きな責任を与えられていることを思い、それなりに大変なのだと考えた時、自分の賜物の小ささを卑下することなく、自分の賜物を生かせばよいことを知りました。