クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

わたしの主キリスト・イエスを知るあまりのすばらしさ(2)

 キリスト・イエスを知る人は、知ることによって自分が変えられるます。自分が変えられてこそ、キリストを知っていると言うことができます。では、私がどのように変えられたのか、振り返ります。

 

(仕える)

「人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです」(マルコ10:45)。

  • 牧師として三重県の教会に遣わされた最初の年、地区の中高生のキャンプに参加しました。最後の日のプログラムが終わり、昼食を食べ終わった人から順次帰って行きます。その時、私の目に年配のS牧師が机の上を雑巾で拭いているのが目に入りました。私は驚きました。と同時に恥ずかしさを覚えました。私の中には、雑巾掛けは私のする働きではない、との思い上がった心があったのです。
  • 「仕える」ことの大切さが天から啓示されたような経験をしました。先輩の牧師の姿勢から学びましたが、イエス様から学んだも同然でした。

(従順)

「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(フィリピ2:6~7)。

  • 死に至るまで従順であったイエス様。私自身は、信仰により生きることの空しさから解放されたので、自分の思いを追求するというより、神さまに従い、神さまに仕えていこうとの思いが強かったと思います。また自分の罪を知り、打ち砕かれることによって、プライドを捨てることができました。誇るなら主を誇れとのみ言葉にあるように、神さまに従順に歩めることを誇りにしたいと思ってきました。
  • エス様の死に至るまで、それも十字架の死に至るまでの従順は、徹底したものがあります。中途半端ではありません。徹底すべきことを教えられました。


(み言葉に従う)

「わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである」(ヨハネ6:38)。

  • 私の場合、神さまに従順に生きることは、具体的にはみ言葉に生きることです。日々聖書を読み、思いめぐらし、聖書を通して神さまが語りかけてくださっていると信じ、その語りかけに耳をすませます。そして私の生活に御言葉を適用します。神さまの声が聞こえるわけではありませんが、神さまの導きと信じて、御言葉の適用して歩みます。適用といっても大げさには考えません。私の日々の生活に対する神さまの指示であり、神さまが私のコーチになってくださるという感じです。

 

(愛する)

「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)。

  • 愛することほど大切なことはないと思います。互いに愛し合うことより、自分を、自分だけを愛する心が強いのが私たちです。しかし神さまは私たちを愛してくださったので、私たちも互いに愛し合います。特に相手の気持ちを思いやることに心を用います。
  • 一番の相手は妻です。家族、教会員を愛するように努力してきました。愛することを教えられたことは本当に感謝なことです。
  • 結婚した当初の私は妻に対する配慮などまったくしませんでした。ある時妻が風邪を引き寝こみました。私が言った言葉。「僕の夕飯は心配しなくていいよ。自分で何とかするから」。その時妻は「私の夕飯はどうなるの」と思っていたそうです。

(み心を重んじる)

 「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」(マルコ14:36)。

  • 私が自分の本当の罪深きことを悟ったのは、神さまの心そのものへの関心を持たないことに気づいた時でした。文字に書かれた神さまの教えは身につけ、これに従う思いで生きてきました。しかし、神さまのみ心そのものに対する関心がないことに気づいたとき、自分の罪深さを思いました。つまり神さまの掟の背後にある神さまの思いに心を向けず、掟を文字通り守って満足する自分がいました。律法学者のようにいつの間にか、自分は正しい人のような気持ちになっています。文字に従ってはいても、神さまの心に従っていたとは言えません。
  • 信仰者になっても、牧師になっても、信仰者としても自分、牧師としての自分に一番の関心があったのです。神よりも自分、何と恐ろしいことか。

 

(キリスト・イエスを知るすばらしさ)

 

  • 私はイエス様を知り、変えられました。生き方が変えられました。これは幸いなことでした。喜ばしいことであり、感謝なことです。自分がよい方向に変えられたのです。ではイエス様を知ることの素晴らしさを感じているのか、といわれると「感じている」とは言えない自分を見いだします。キリスト・イエスを知るすばらしさということを考えてこなかったからです。
  • しかし、イエス様によって自分が変えられたことを今、言葉で表現しました。そして今、私はあらためてよい方向に生き方が変えられたことを自覚しました。それを言葉で表現しました。私が変えられたのは神さまの導き。これはすばらしいことです。それなら、イエス・キリストを知ることは、すばらしいことなのだと言えるのではないかと思います。
  • エスを知ることは素晴らしい!

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    散歩道にこんなものが