クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

人生を導かれる神(5)

 おいしいものは自分でつくる。食べたいものは自分でつくる。そんな思いでスパイスカレーを作っています。今日の夕食は鶏肉のキーマカレー。妻はおいしいと言ってくれました。スパイスカレーは作り方は簡単ですが、スパイスの組み合わせをどうするかが初心者には分かりません。奥が深く、チャレンジのし甲斐があると考えています。

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 「人生を導く神」というテーマで4回ほどブログに文章を書きました。昨日、書き足りないことがあることに気づきました。神さまは私たちの人生を導き、本国である天に導かれることを書き忘れていました。エジプトを脱出したイスラエルの民に乳と蜜の流れる目的地があったように、イエス・キリストを信じる私たちにも神の国という目的地があること、神の国へ到着できるように神さまは私たちの人生を導かれる方であることを書き損ねていたことに気づきました。

 そして今朝ディボーションでフィリピの信徒への手紙を読みました。3章の17節から4章1節まで。そこにこのように書かれていました。

何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。(18~19節)

 「この世のことしか考えていません」。この言葉が心に突き刺さってきました。神さまが導いてくださる最終目的地である神の国のことを書き損ねるということは、結局、自分はこの世のことしか考えていないのだと思い知らされたからです。年をとってこの世を去る時が近づいていることを意識しているのに、そして目的地である神の国のことは口にはしているのに、自分はこの世のことしか考えていないのだと気づかされました。頭では、神の国のことを考えているにしても、心ではこの世のことしか考えていないと思い知らされました。フィリピ書はさらに続きます。

しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。(20~21節)

 キリストが再臨し、私たちが神の国に迎えられる時、私たちのこの卑しい体はキリストの栄光あるからだと同じ形に変えられるとあります。キリストは万物を支配下に置くことのできる力によって、私のからだを変えてくださいます。このことも、知っていながら、真剣には考えていませんでした。しかしある意味、真剣に考えてはいるのです。キリスト者の歩みについてパウロは、コリント二3章18節でこう語っています。

わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。

 キリスト者の歩みは、主と同じ姿に造りかえられる歩みとパウロは語ります。私はみ言葉に従い続けることによって主と同じ姿に変えられると信じて、み言葉に従うことを心がけてきました。でも、キリストが再臨される終わりの時、キリストの栄光あるからだと同じ形に変えられることは意識していなかったのです。信仰者のこの世における歩みがいかなるものかを考え、これを追求していたのです。キリストに近づく歩みを心がけました。しかし、自分の行きつく先、目的地はぼんやりしていたのです。キリストの栄光の体と同じ体になるという目標は意識していなかったのです。迂闊と言えば迂闊でした。でもそれには理由があったのです。神の国を頭で信じてはいても、心では、神の国を目的地と信じる心が希薄だったのです。だから、目的地を明確に意識することができなかったのです。この世のことしか考えていないから、目的地が曖昧になってしまったのです。

 約束の地を目指して旅をしていたイスラエルの民が、水不足、食糧不足に直面すると神に信頼して助けを求めるどころか、不平を言いました。何回も。神さまが導いてくださる目的地を意識しない、信じないのです。その民の姿が自分に重なりました。神さまに対して、本当に申し訳ない思いになりました。