クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

恐れからの解放(3)

 死の恐怖とはどんな恐れなのでしょうか。私たちは亡くなった方の生きている姿をもはや見ることはありません。死んだ人はどこに行ったのでしょうか。死んだら人は無になるとある人はいいます。自分の存在が消えてなくなるのです。でも世界はいつものように存在しています。自分がいなくても世界は変わることなく動いています。死の恐れとは自分が世界から見捨てられることではないかと僕は考えています。自分の存在がなくなる、自分がこの世界から見捨てられる。これが耐えがたい。これが僕にとっての死の恐怖です。自分が見捨てられるなどと考えると心はわなわなと震えてきます。今は、この恐れから解放されましたが。

 キリストを信じ永遠の命を与えられた人は、死を恐れる必要はありません。いたずらに死を恐れる必要のないことが分かっただけで、救いとなります。しかし頭では納得しても心はまだ納得していないということがあります。つまり死の恐怖は依然として私たちを捕らえているのです。

 そこで考えるべきことは、何が本当なのか、何が真理なのか、ということです。聖書は、キリストを信じる者は永遠の命を与えられていると告げます。他方、私たちの経験は、死んだ人は二度と姿を現さず、死んだら人は無となり、世界から忘れ去られると語ります。どちらが本当なのか、ということです。

 聖書によれば、人は死んでも無になることはなく、復活すると告げ、なお信仰者は神と共にあると教えています。あなたは何を真理として生きるのか。人間の経験を真理として生きるのか、聖書が告げるところを真理として生きるのか、どちらを選んで生きるのかという課題が生じます。

 死んで復活し神の国で神と共にあることを信じるなら、人は死んで無になると信じることはなく、世界から見捨てられるとは考えません。聖書が告げることと経験が告げること、どちらが本当なのでしょうか。これは科学的に立証できることではありません。何を真理として信じて生きていくか、生き方の選択となります。

 むかしエジプトで奴隷として苦しい生活をしていたイスラエルの民は、神に助けを求めました。すると神は、あなたがたをエジプトから救い出し、乳と蜜の流れるところへ連れて行くと約束されました。エジプトから解放された民は、約束の地まで荒野を旅しました。そこに試練が待っていました。食物がなくなったり、水不足になったり、敵から攻撃されたり。そこでどうするか、です。多くの民は神の約束を信じないで、不平を言いました。こんな目に遭うなら、エジプトで奴隷のほうがよかったとさえ言うのです。神の約束を信じなかったのです。そしてこんな荒野で食物を得ることができるはずがない、水を得ることができるはずがない、と自分の常識で判断し、不平を言ったのです。何を本当とするのか。何を真理とするのか。神の約束を信じ抜けば、神に信頼すればよかったのです。神はイスラエルの民に神に信頼すべきことを教えるために、困難が起きるつど助けを与えられました。

 信仰の戦いとは、経験が語ることに抵抗して神が語ることを真理としていくことです。実感ではなく、聖書が告げることを真理としていく、これが信仰の戦いです。死の恐怖から解放されるためには、この信仰の戦いが必要となります。

 この戦いはむずかしい戦いではありません。聖霊は真理の霊です。真理の霊である聖霊なる神が私たちに、神の言葉が真理であると悟らせてくださいます。聖書の語ることが真理であると理解させてくれます。

 死の恐怖に捕らわれそうになる時に、死を越える希望を語る聖書の言葉を思い浮かべます。この聖書の言葉から希望を受け取っていく時、心は死の恐怖から解放されていきます。私の経験です。

ところで、子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。

 この聖書の言葉は、神の約束の言葉です。そして信仰の告白の言葉です。

後の代に語り伝えよ
この神は世々限りなくわたしたちの神
死を越えて、わたしたちを導いて行かれる、と。
詩編48:14~15

私の好きな聖句です。私はこの聖句を真理の言葉とします。「語り伝えよ」とあるので、このようなブログの文章を書いています。

f:id:holala:20190323214506j:plain

早咲きの 桜にぶんぶん 音すなり 思いがけない ミツバチの群