クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

死を思い 生を見つめる

 5月12日の朝日新聞に興味深い記事があった。「死を思い生を見つめる」とタイトルがあり、読者からの投稿が紹介されていました。

 誰もが迎える死。私たちは、どこまで心の準備ができているのでしょうか。死を覚悟するようになったきっかけ、支えにしているものなど、様々な声が寄せられました。新聞に掲載されていた投稿の一部を紹介します。 

きっと実際に死ぬ直前は「嫌だー死にたくない」と叫ぶのだろうが、死んだらただの物質だと思うと、なんてことないなと思う。(女性50~54才)

両親や身近な人に死に触れる中、死が恐ろしいもの、特別なものという意識は薄れてきた。生き続けることの方が、はるかに大変で難しく恐ろしいことのように思うう。(女性55~59歳)

私立高校で倫理を教えている。父をみとり、死は怖くはなくなった。昨年、初期の胃がんで手術。術後、麻酔がさめて目覚めると、新しく生まれ変わったような感じがした。治療後、ラテン語の「メメント・:モリ」という言葉が心により響くようになった。「自分がいつか必ず死ぬことを忘れるな」というような意味。一日一日を、後悔なく生きることを心がけている。生徒とも一緒に、生と死について考えている。(男性64歳)。

やはり死は怖い。苦しむのが怖いのか。この世を去るのが怖いのか、忘れられるのが嫌なのか。(男性70~74歳)

 投稿から集計したのでしょうか。「覚悟ができている人は478人。できていない人532人」と報告がありました。親しい人の死を看取り、死は怖くなくなったと語る人が案外多いように思います。神社仏閣で手を合わせている人の多さを見ると、日本人は宗教心とは別に天国・極楽・浄土などの来世を信じているのか、と思わされます。

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沢山の人が訪れています。東大寺

 私自身は、小さい頃からメメント・モリで生きてきました。そして今聖書を読みながら、死を越える希望を確かにしようとしています。最近思いめぐらして聖書の箇所は、コリント一13章12節です。

わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。