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隠退牧師 holala によるブログ

根本的転換の必要

 ルカ福音書のディボーションが終わり、今日はヨハネ福音書1章1~3節を読みました。

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。

 これを読み思いめぐらしていた時、とんでもないことに気づいてしまいました。私の物事の考え方が実は逆転していることに気づかされたのです。私は、自分を出発点として物事を考えていました。自分を出発点として神をそして信仰を考えていました。でもそれはとんでもない間違いだったのです。

 「初めに言があった」。この「初め」は、そもそもの初めです。初めに言があったのです。そしてその言によって万物ができました。私自身は、その万物の一つにすぎません。まず言があり、その言によって、私が存在するのです。言が先にあるのです。神がおられ、その意志が言となって万物を生み出し、私も存在するようになったのです。私が物事を考えようとするなら、まず神を出発点とするのが順序です。神が出発点となるべきです。私は神によって存在しているのですから。
 しかし私は、自分を出発点として物事を考えていたのです。考え方が逆転しているので、問題が生じてきます。

 終末の事柄をどうしたら本気で信じることができるのかは、私の課題でした。現代人の私としては終末の事柄は絵空事に思える面があります。しかし私は信仰者。信じる立場にあります。どうしたら終末の事柄を信じることができるか、そんなことを考えてきました。でもそれが間違いだと気づきました。

 私は神が造られた世界に生まれたのです。終末がある世界に生まれたのです。終末をどのように信じることができるのか、という問題の立て方は間違いなのです。どうしたら信じることができるのかという考えは傲慢な考えです。自分が信じられないことが起こる世界はおかしいというようなものです。それは神に異を唱えるようなものです。終末のことを本気で信じたいのなら、信じさせてくださいと謙遜に祈るべきなのです。自分を出発点として物事を考えるからこのようなことが起きます。

 自分を出発点として物事を考えるのではなく、神を出発点として考えること。

 神さま、私の間違いに気づかせてくださり、感謝します。