クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

信徒の忘れられない言葉(2)

「いつ死んでもいいです」。

 持病をもっている教会員の信徒の方が語った言葉です。多くの人がもっている持病で、この病のためにすぐ死ぬとか、そういうことはありません。病と共に生きるわけですから、自分の死を意識せざるを得ないと思います。

 この言葉を聞いた時、「どうしてそのように思えるのですか」とさらに気持ちを引き出して聞けばよかったのですが、その時は、「そうですか」としか返事ができませんでした。「聞いてくれればいいのに」と思われたかもしれません。でも「どうして」とか「なぜ」とか聞いて、相手の心に踏み込んでいくことにをためらう気持ちがあったことは確かです。

 また「いつ死んでもいい」という心境になるにはどうしたらいいのか、という問いを私自身持っていたので、自分が答えを見いだす前に他の人の答えを聞くのをためらう思いもあったと思います。先入観なしに、私は私で答えを見つけたいと思っていました。そして今、「いつ死んでもいい」という心境に近づいてきたと思っています。

 それはいかにして自分の死を受け入れるのか、を考え続けてきたからだと思います。もちろん聖書を基に考えてきました。死と向き合い、考え続けることが、死を受容する思いに導いたと思っています。

 私には最後まで残る問題が二つあります。

  • 信じることには、疑いが伴うということです。私も復活する、神の国に迎えられると信じていますが、100%完璧に信じているわけではありません。絶対的な確信があるわけではありません。本当だろうか、とささやく声が聞こえないわけではありません。悪魔の声だと思います。
  • この世への愛着。この世に70年以上生きてきました。積極的にこの世を去りたいという思いにはなれません。死にたいと思うほどの辛い状況にはありません。死後のことは不透明なので、今この世に生きていれば、ひとまず安心というような思いがあります。

 「わたし、天国を無条件で信じています」

 これはクリスチャン家庭に生まれた他教会の青年女子の言葉で、これも忘れられません。子どもの頃から教会に通い信仰を持つとこうなるのでしょうか。

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