聖霊に関して私が大切に考えている聖句があります。最初の聖句は使徒言行録1章8節です。
あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。
この聖句は、自分が説教者として立つ以上無視できない聖句と受けとめました。「力を受けて」キリストの証人として説教をするのです。福音を証しする者として語る、それが説教者です。そのためには聖霊が降ることが必須となります。
- 聖霊が降ることは自覚できるのか否か。
- いつ私の身に聖霊が降ったのか。それともまだなのか。
- さらに「力」を受けるとはどういうことなのか。
簡単には答えが出ることではありません。でも「力を受ける」ことは自覚できる事柄です。とすれば、そのような経験はまだないか。
2番目のの聖句はヨハネ福音書7章37節以下の言葉です。
祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」。イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。
- 「その人の内から生きた水が川となって流れ出る」とはどういう意味なのか。
- そして私は渇いていたのです。聖霊の導きに、聖霊が与えてくれる力に。
それにしても「その人の内から生きた水が川となって流れ出る」とはどういうことなのでしょうか。もちろんこれは比喩です。湖などで地下水が湖底らコンコンと湧き出るイメージが重なります。
そしてもう一つ、これは四つの福音書すべてに書かれているものです。ここではマルコ福音書1章8節を引用します。
わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。
これは洗礼者ヨハネの言葉です。主イエスは聖霊で洗礼をお授けになる方であるとヨハネは証しをします。
- 聖霊による洗礼とは何か。
- 私はいつ聖霊による洗礼を受けたのか。
- それともまだなのか。
私にとっては難題です。しかし先輩の牧師に以上のことについて質問する気持ちにはなりませんでした。求める答えは得られないだろうと勝手に思ったからです。こんな気持ちを抱きながら、1989年4月、次の赴任地御殿場教会に向かいました。