神が存在することを証明する絶対的な証拠・確かさというものはないと思います。それなら人は神の存在の確かさをどのように覚えるのでしょうか。人生の中で神の存在を実感する場面がいくつかあると思います。その実感が神の存在の確かさを私たちに覚えさせるのでしょうか。
私に神の存在の確かさを覚えさせるのは、自分の罪です。自分の罪を自覚させられたこと、これは何よりも神の存在の確かさだと思っています。どんなに神がいるとは思えなくても、自分が罪を犯したとの自覚は消すことはできません。自分が罪人であることは紛れもない事実なのです。
以前このブログに書きましたが、受洗を決心するきっかけとなった出来事がありました。その頃私はサラリーマンでした。ある時仕事で講演会に行きました。講演を聞いている途中で咳き込みました。そこでハンカチを口に当て、咳が講演の妨げとならないようにしました。咳がおさまり、ハンカチを口から話したとき、血がべったりとついていました。これを見て、私は頭が真っ白になりました。居ても立ってもいられない状態になり、外に出ました。心はうつろな状態で街を歩きました。神さまに裁かれても仕方がない、死んでも仕方がない、との思いで心がいっぱいになりました
その頃、私は教会の礼拝には行っていました。そして喫煙が体によくないことを知りながら続けていました。やめたくてもやめられなかったのです。タバコの奴隷です。神さまからいただいた体を傷つけている、神さまの審きを受けても仕方がない、もしかしたら重病の前触れかも知れない、などと感じました。でも怖くて、病院には行きませんでした。自分は罪人であるとの自覚、これが私にとって、神が存在する証拠です。
その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。ヨハネ16:8
聖書が示すように聖霊の働きにより、罪を自覚させられ、私は洗礼へと導かれました。罪の赦しを得られることは本当に幸いなことです。イエス様が十字架で死を遂げられたこと、それは私の救いのための出来事でした。罪が赦され、神と和解し、神との間に平和を得て生きることが許される、ありがたいことです。しかも神に愛される神の子として生きることが許される、本当に感謝なイエス様の恵みです。