妻の友人のTさんが別の教会に出席するようになり、その教会の礼拝説教テープをまた聞くようになりました。1995年8月のことです。
8月4日の日記には、「S牧師の説教を聞いて、驚く。これほどまでに神を経験し知っている人はいない。神秘的なキリストの現存を主張する人、具体的な生活のレベルでキリストの愛を語る人。こういう説教をする人がいるのは新鮮な驚きであり、うれしい出会いである」。
8月10日の日記には、「S牧師の説教テープに圧倒された。放心状態で運転していたら、警官に止まるように指示され、一時停止をしなかったと違反に問われ罰金7000円」。
8月11日の日記には「夜はS牧師のテープを聞く。祈りの4回シリーズのテープを聞きおわる。本当に神を知った人だと思う。そのように僕もなりたい」。
8月15日の日記には、「ガラテヤ書を学び、黙想していくうちに、聖霊に満たされてきたように思う。これを臨在感と言うのかどうかわからないが、月曜日は、少し希薄になった。それを取り戻したいと思っている。主よ、顧みてください」。
そして8月29の日記には、「心に暖かいものがとどまっている」。
それがいつ起きたのか、日記に書いていないのでわかりませんが、お腹のあたりにあたたかいものが存在しているように感じました。およそ、一週間くらい、その感覚がありました。やがて消えました。私にとってそれは、「私はここにいるよ」と聖霊様が私に語りかけているように思えました。
そして9月21日の日記には、「今朝、聖霊が、そして主イエスが僕の内においでくださることを確信した。単純に信じればよい。何かしるしや不思議な感覚を求める必要はない」。『神を求めて』というノートには、「神がわが内におられるという確信を得た。心が深く満たされているという思いがする。また聖霊よ、来てください、と祈る必要はないという解放感みたいなものがある。跳躍するような神秘的な経験はなかったが」。
聖霊を求めて、聖霊の満たしを求めて祈ってきましたが、一つの区切りを迎えたように思いました。