クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

イエスの恵み(4) 信仰なき者の願いを聞かれる神

 私は信仰のない家に生まれました。家には仏壇もなく、宗教的な雰囲気は何もありませんでした。幼い時に祖母が亡くなり、幼い子どもなりに、人間は死ぬ存在であることを知りました。死んだらどうなるのか分からず、死を恐れました。小学生の時から死を怖く感じていたと思います。死んだら自分の存在が消えます。私がいなくてもこの世界は変わることなく存在し、人々は生きています。自分が世界から見捨てられたような気がしました。それが恐ろしく感じました。死を考えないで生きるようにしました。しかしふと自分が死ぬことを思うとき、その恐れが私を捕らえました。

 大学生の時、大学紛争が起きて、色々悩みました。気分転換に大学4年の夏、尾瀬ヶ原に友人と行きました。山小屋に泊まったその夜、ふっと「生きることは何と空しいことか」との思いにとらわれました。

 何をすれば空しさを克服できるのか、何を所有すれば空しさを克服できるのか、色んなことをしました。物質的には人並みに豊かな生活ができました。しかし一時の満足しか得られませんでした。

 そんなある日、思ったのです。「そのために死んでも命が惜しいとは思わない、そのようなことのために生きよう。そうすれば死に勝つことができる」。それが何か、もちろん分かりません。生きていくために仕事をしました。残業も多く、考える暇がなくなるほどでした。でも心のそこには空しさがありました。

 そんな私がある時、礼拝に誘われました。伝道集会でした。紆余曲折はありましたが私はキリスト者になりました。そればかりか伝道者として生きるよう、神さまから召しを受けました。そして思いました。神さまは、ずっと以前から私を目に留めてくださり、教会の礼拝へ導き、信仰者へと導き、神学校へ行くように導き、そして牧師として働くように導いてくださったのだと。そしてキリストを宣べ伝える働きのために命をささげるようなことがあっても、私は後悔しないと思いました。イエス様は、神さまの御心にご自分の命をささげられました。神さまは、信仰を持つ以前の私の願いを覚えてくださり、私を導いてくださいました。

 この神さまの恵みによって、今日の私があります。

あなたがたのよく知っているとおり、あなたがたが先祖伝来の空疎な生活からあがない出されたのは、銀や金のような朽ちる物によったのではなく、きずも、しみもない小羊のようなキリストの尊い血によったのである。
(ペトロの手紙一1章18~19節)

 

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八重のクチナシ 散歩道にて