クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

分かち合う努力

 昨日から奈良高畑教会の夏期学校に行ってきました。会場は六甲山YMCA。私は妻と一緒に参加しました。双子の赤ちゃんの見守りの役があります。年齢別に分級を行いました。私は分級は成人科に出席、妻は嬰児科に。野外活動の時などは見守りをしました。

 成人科は3回の集いを持ちました。ヨハネ福音書15章11~17節を学びました。「互いに愛し合いなさい」とイエス様が教えられた箇所です。一回目の時間は、自己紹介をし、それから各自聖書を読み、思いめぐらしました。二回目の時間は、思いめぐらしたことを分かち合い、語り合いました。三回目は、ヨハネのその箇所について書かれた若い人向けの文章を共に読み、分かち合いました。

 成人科は、昨年のメンバーとほぼ同じで、昨年も同様な分かち合いをしましたから、分かち合いも慣れてきました。

 そのプリントには、「愛する」とは何かは定義できない、と書かれていました。これについては著者と私は意見が違うなと思いました。そこで私は次のように発言しました。

私は「愛するとは何か」を自分なりに定義しています。聖書も、ヨハネの手紙一の中で、神を愛するとは、神の戒めを守ることであると書かれていて、神を愛するとは何かを明確に書いています。定義すれば、つまり愛するとはどういうことかを明確にすれば、愛する努力を行うことができます。定義しないと愛するとは何かがあいまいになり、愛する努力がしにくくなります。私にとって愛するとは、相手を大切にすること、相手の心を大切にすることです。

 さらにそのプリントには、「相手の存在を無条件に喜ぶこと」が大切だと書かれていました。プリントを読んでみた印象として、「相手の存在を無条件に喜ぶこと」が可能なことと書かれているように読めました。それでまた自分の思いを話しました。

私は相手の存在を無条件に喜ぶことはできません。私にできることは、無条件に喜ぶように努力することです。私と妻の間にこんなことがありました。・・・。夫婦が相手の存在を互いに受け入れ合う努力を積み重ねる中で、無条件に相手を喜ぶことができるようになるのではないでしょうか。相手の存在を無条件に喜べないところに罪があると聖書は教えているのではないかと私は思います。

 私は祈祷会でもそうですが、今は牧師という立場(教える立場)を離れているので、自分の思い、考えを分かち合う努力をするようにしています。子どもを教会学校に送っているお母さんが、この成人科に出席されているので、私の発言が伝道に役立てばと願いながら発言しました。

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YMCA内の池で。カヤックを楽しむ子供たち