クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

宿題となっている聖句

 今となってはどんな状況でM牧師がその聖句を口にしたのかは思い出せません。しかしその時以来、その聖句は私の脳裏から離れることはありません。その聖句とは、ペトロの手紙の一1章8節の言葉です。

あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、
今見なくても信じており、
言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。

 脳裏を離れない理由は、その喜びを私はまだ味わっていないからです。そして味わいたいからです。御言葉が語ることを私は体験したいのです。私は欲張りなのでしょうか。

 これはどんな喜びなのでしょうか。言葉では言い尽くせないとあります。それを言い表す適切な言葉がないのです。人が簡単には経験できない喜びなのだと思います。あるいは経験した人が少ない喜びと言えます。信仰がなければ味わえない喜びです。イエス・キリストとの関わりにおける喜びだと思います。主イエスとの深い交わりに生きるときに与えられる喜びなのでしょうか。

 私は信仰を得て、心の底には静かに横たわっている喜びと平安があります。この喜びについては「心の底に静かに横たわっている」と言葉で私は言い表しています。ですから私の喜びはペトロが語る喜びとは、異なるものだと思います。

 ペトロの手紙が語る喜びとはどんな喜びなのでしょうか。M牧師は、平然と「私たちにはこの喜びがあります」と語ったように記憶しています。聖書の言葉は色々解釈できますが、この喜びを私は与えられていると解釈することはできません。この喜びを与えてくださいと日々祈っています。

 そういえば、今週の祈祷会で読んだ詩篇86編。その4節を思い出しました。

あなたの僕の魂に喜びをお与えください。
わたしの魂が慕うのは/主よ、あなたなのです。 

  詩人は、「あなたの僕の魂に喜びを与えてください」と祈っていました。喜びを求めて祈るという点では、私は詩人と同じです。このペトロの手紙の聖句は、私にとっては宿題のような聖句です。御国に迎えられるまでに何とか解決したい宿題です。

 

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エゴマの花 散歩道にて